ラベル プロフィール の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル プロフィール の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年1月26日水曜日

ただ可憐なもの(2011)

ソロ活動と並行して2001年に始めた、仲間を集めた大所帯バンド、チェルシーボロ。
このバンドでは人間の原点回帰的な生活を歌う、という自分なりの理想があった。
そのバンドが一昨年解散したこと、その挫折そのものが今回のアルバムのインスピレーションになった。
バンドは終わったけど、かわりにまた別の反骨精神が僕の中に芽生えた形。
そこがこの『ただ可憐なもの』のスタート地点だ。
制作は東京と京都を行き来して行われた。


01.本屋の少女に
2009年作。このアルバム用に仕上げた曲で、以前チェルシーボロでやっていた「桃をあげる」が換骨奪胎されている。新しいメロディーがついた途端にするするっと新しい歌詞も出てきた。自分の経験上、創作の苦労がない曲ほどいい曲になる確率が高い。歌詞はいつものように「含み」が多い。本屋の少女とは何者だ。ギター・チューニングは「アイヴィー」や「7(セブン)」でも使ったEADEAE。小島君のドラムの音が強烈。

02.サルベージ船
チェルシーボロでもやっていたインスト・ジャムだが、アレンジには相当手を入れている。優雅なようで不気味、オシャレなようでいてダーティーだ。複雑な表情を見せる曲になった。柿澤さんはトランペットよりも柔らかくふくよかな音が出るフリューゲルホーンを選択した。そこにかぶってくる仲本さんのフリーキーなサックスもいい。コーラスはメロディーを逆から歌って、それを逆回転にしてある。タイトルは昔つけた仮題のまま。今さらどうしようもなかった。

03.神に麻酔を
チェルシーボロでお馴染みの人気曲。2001年作。ギター・チューニングはオープンG。「神」って言葉は便宜上使っているだけで、各々が「信じるもの」に置き換えられると思う。それを麻痺させて生きている人がこの世にはいっぱいいるのだ。そういう歌。レコーディングはクリックなしの1発録りにした。クリックありだと固かったので。アイリッシュっぽい福永君のフィドルが出てくると空気が凛とするな。フルートも見事であります。

04.ウサギの国
旧題は「走れウサギ」で、1998年にジョン・アップダイクへのオマージュのつもりで書いた曲。当初『お先に失礼』(ミニ・アルバム、1999)に収録するつもりで、リズム録音までしたのだが、しっくりこなかったのでボツになった経緯がある。数年後、チェルシーボロのレパートリーとなり、そこで今のアレンジが固まっていった。歌詞は哲学っぽくてシュール。哲学はシュールなのだ。レコーディング前に歌詞を吟味したら、別にオマージュだとは言えなかったのでタイトルはふさわしき形に変えた。

05.ローラーコースターに乗ろう
2009年作。このアルバムの為に書き下ろした。はじめはシャンソンっぽいワルツ曲だったんだけど、最終的には青春ポップな匂いと、ジャズっぽいスウィング感が綯い交ぜになった不思議な感じになった。ラストのインスト部分、録音当初はフェイドアウトするつもりだったけれど、みんなの演奏が丁寧で、その絡み合いが得がたいものだったので全て残すことに。

06.空を切る
このアルバムの為に書き下ろした曲。2009年作。ごくごくシンプルに徹したフォーク・ソング。それだけにフルートの美しさが引き立ったかな。昔から自分の音楽にはフルートが合うと思っていた。でも、天邪鬼な僕はそれを禁じ手にしていた…のだが、今回は絶妙なタイミングで岩下さんと知り合った。これはアルバムの「魂」が彼女を引き寄せたのだ。そうとしか思えないタイミングだった。

07.死ね、名演奏家、死ね
このアルバムの為に用意したインスト曲。2009年作。初めてのリハーサルの時は曲自体が未完成だったので、収録するかどうか微妙だった。僕の場合、そういうケースは極めて稀(歌詞が完全に出来てないと収録曲候補にすら挙がらない)。インストだからその束縛もなく自由にやれたのが良かった。クリックなしの一発録音で1テイクOK。それに少々オーヴァーダブをした。アコギは3弦をEまで下げてます。タイトルは…検索してみて下さい。何故かそのタイトルしか思い浮かばなかったので。

08.ハッピーバースデイ
これは『サイレンサー』(2004)の時から録音しようと思っていたお気に入り曲。1999年作。だけど、周りの曲との兼ね合いでなかなか入り場所が見つからず、正式リリースには到っていなかった。今回のアルバムには非常にしっくり来てる。ギターはGオープン。もう1本はレギュラーで弾いたかな。ドラムは2本。中央は小島君。ジャズっぽいビートが中村さん。こういうアレンジを指示する自分が好き。

09.(ロスト)ウィークエンダーズ
これもチェルシーボロ時代の曲で2003年作。ただし歌詞をソロ用に手を入れ、タイトルはちょっとヒネリを加えた。元々は労働者の苦悩を全面に押し出した歌詞だったんだけど、その辺はぼかした。現実味を削り取ったというよりは、救いの起点となるポイントを残した感じ。より普遍的な内容になったと思う。ギターはGオープン。アコギはレギュラーで弾いた。

10.ボート
2009年作。「不良少女」や「だから、存在して」でも使ったCACFCD#という不思議なチューニングで作られた曲。変拍子メロもあって、どうやって出来たのか自分でもよく分からない。歌詞は今作全体のムードをまとめる役割がある。ここに出てくる男女は他の曲群に登場する男女と、ほぼ同一人物とみていいかと思う。ここから本当の物語が始まる。そういう曲。スタジオではクリックありで、2テイク録った。どちらも良い部分があったのでプロツールズでつなげて、その上にダビングものを加えていった。

11.ただ可憐なもの
2008年作。この曲は夢の中で出てきた。その夢の中では別の人が弾き語りしていたんだけど、目が覚めてよく考えたら、これは自分が作った曲だよなぁと思ってすぐに書き留めた。「イエスタデイ」のようなエピソードだが、本当の話である。だからと言って、自分がポール・マッカートニーのように凄いとは口が裂けても言うまい。ギター、むつかしかった。

ジャケットは元チェルシーボロのアートワーク担当メンバーに頼んだ。
すごくシンプルで可愛い作りになっていて、まるで絵本の表紙のようになった。
かかわってくれた皆様、ありがとう。

2010年10月8日金曜日

黒姫バイト その2

(前回からの続き)
記憶は途切れ途切れだけど、結構細かいところを憶えている。
20年以上前の話だが、黒姫でのペンション・バイトはそれだけ鮮烈だったのだろう。
でも、ここはネット上なので、これ以上詳細に書かないでおきたい。
若旦那が女風呂を覗こうと言い出して、僕らに注意されたことも書かない。
場所が特定されてしまうと、宿の方に迷惑をかけてしまうので。
ペンションに約束のドラムやアンプ類が無かったことは、
僕らにしてみれば「騙された」と感じることだった。
自分達としては、それがあるからバイトを決めたのだ。
日給は長野県で決められた最低賃金。
10時間以上は働いていたので、それを時給に換算してみると…
頭を抱えることになる。
僕らを代表して平田君が、それを言いだしっぺの先輩に電話して抗議した。
フロントにあった公衆電話から大阪までの遠距離通話だ。
話を切り出すと、先輩の方もそれについては寝耳に水だったらしい。
どうも仲介をしている旅行会社がその約束をペンション側に伝えてないらしかった。
僕らはまた憤慨したが、事の次第が明るみになったおかげで、何やら状況が好転しそうなムードは出てきた。
そんなわけで、黒姫バイトが始まってから10日後。
やっと待ちに待った機材がペンションに届くことになった。
山道を抜け、ブロロンと登場したトラックにはドラムセット、ミキサー卓、ギター&ベース・アンプなどが積載されていた。
僕らはトラックの荷台ドアを開けて「おお!」と歓声をあげた。
しかし、問題がひとつあった。
合宿中のクラブ団体、つまりお客さんがペンション施設を使っている関係で、
荷物は降ろせないというのだ。
やるならトラックの中でやってくれ。電気はひくから、ということなのだ。
僕らは一瞬顔を見合わせた。
しかし、考えるまでもない。
全然OKだ。
そんなこと音を出せないことに比べたら何でもない。
むしろトラックの荷台でバンド練習なんて、カッコええやん、という話になった。
機材が届くまでの10日間、僕らは地味に練習していたのだ。
僕はエレキの生音をペチペチと、
ドラムの平田君&田辺君はスティックで週刊スピリッツをパタパタと、
キーボードの岩井君はヘッドフォンを耳にかけ鍵盤をカタカタと、
それぞれ孤独に鳴らしていただけだった。
それに比べたら天と地ほど違う。
何でもいいからやらせて下さい。
僕らはそう言った。
その後、みんなでトラックの荷台の中に入り、機材を配置し、ドラムキットを組み立てた。
そして、でっかい音を出した。
快感だったことは言うまでもないだろう。
トラック内は薄暗く、蒸し風呂のように暑くて、汗がだらだら出たけど、
僕らはそれを気持ちいいと感じた。
そこからの日々は、充実したものになった。
一気に僕らの精神状態も良くなった。
僕らが寝泊りしていたバンガローの前にはハンモックがあったんだけど、
そこにごろりと寝転んで、誰かが駐車場のトラックで個人練習している音を聞きながら昼寝をするのは、なかなかのものだった。
目を閉じた瞼の上では、緑の木々から漏れる陽光が揺れていた。
最初は仕事に慣れるまで大変だったが、
ペンション・バイトも後半になると調子が出てきた。
働く地元の皆さんとも仲良くなり、まかないもおかわりを遠慮なくした。
食事の配膳、そして片付けの要領も完全につかみ、
掃除はそれぞれの担当場所のエキスパートになった。
釣り堀の店番は気楽だったし(漫画「BECK」に出てくる釣り堀と似てた)、
自動販売機の補充は自由にやらせてもらえた。
僕個人的には、焼き魚皿に敷く笹の葉を一人で山に採りに行くのが好きだった。
森の中はいつだって静かだった。
午前中だと朝露が草木についていて、生々しい緑の匂いがした。
僕は笹の葉を採ったあとも、少しぐらいはいいだろう、と森の中でぼうっと立っていたものだ。
そして、仕事に慣れると、残された日々はあっという間なのだ。
最後の方は余裕があり過ぎて暇になり、漫画ばかり読んでいたな。
そんなこんなでバイトが終わった。
僕ら4人はペンションの方々に束の間のお別れを言い、関西のそれぞれの地元に帰った。
そして、また9月に今度はお客さんとしてそのペンションへ赴き、合宿生活をしたのだ。
ただし、この時はトラックの荷台でバンド練習はしていない。
トラックは駐車場から消えていた。
そして、しかるべき部屋にちゃんと機材がセッティングされていた。
僕ら4人は苦笑いした。
それはそれで、何か物足りなかったのだ。
これが僕の18歳の夏の思い出である。


BGM:

2010年10月4日月曜日

黒姫バイト その1

大学1回生の夏、同じクラブに所属していた友達4人でペンション・バイトをした。
場所はC.W.ニコルが住んでいることでも有名な、長野の黒姫山のふもと。
冬はスキー宿を商い、夏は大学サークルの夏合宿を受け入れるという宿だ。
先輩に「そこで働けば、空き時間に音楽をやれるぞ」と推薦された僕らはふたつ返事でバイトを決めた。
実際そのペンションへはうちのクラブも9月に行く予定になっており、
ドラムやアンプ、エレピなんかもあるらしく、これは練習をするのにはうってつけの環境だと僕らはテンションを上げたわけだ。
夏の信州と云えば避暑地だ。クソ暑い大阪を抜け出せる。
バイト料は安いにしろ、当然まかないは出るわけでこれは最高やんか!と、
皆わくわく胸を躍らせたのだ。
しかし、世の中そんなに甘いものではなかった。

僕らは大阪から長野へと旅立った。
日本海側のルートで電車を乗り継ぐこと、数時間。
僕らは初めての土地、黒姫へとやって来た。
改札を出ると、待っている筈のペンションの人がいなかった。
このへんから暗雲が立ち込めていたのだが、
十分後にボロボロのバンに乗って来た人を見て、僕は何だかとても悪い予感がした。
その人はペンションを切り盛りする若旦那さんだった。
ヨレヨレのTシャツに半ズボンというラフな格好の丸坊主男(27歳)で、
会うなりとても馴れ馴れしい態度だった。
そういう人間が苦手なことは僕の音楽を聴けばわかろう。
ましてや僕はまだ18歳だった。
彼は僕にいきなり「へぇ、ギター弾くんだ。なんでそれ持ってんの?」と訊いた。
その質問があること自体に、僕の悪い予感はさらに高まっていった。
僕らは若旦那に促され、年期の入ったバンに乗り込んだ。
そして、ペンションへと連行された。
しかし、着いてみるとそこは「ペンション」などというオシャレな空間ではなく、
普通の民家を何度も建て増しした、ただの不思議なスキー宿だった。
5段くらいの中途半端な階段が家のあちこちにあり、
歩いていると一体ここは何階なのか分からなくなった。
風呂はそこそこの大きさだったが、温泉ではなくパンフには「温泉風」と書いてあった。
それだったら書かない方がマシだった。
しかし、宿の敷地面積は広く、運動場やバンガロー、離れの宴会場、釣り堀池まであった。
そういうこともあり、体育会系やブラスバンドなど、大学の様々なクラブの夏合宿に利用されるのだ。
そして、僕の悪い予感は的中した。
約束されていた筈の音楽機材が何も無かったのだ!
若旦那は「そんな約束は知らない」と無下に言い放ち、
逆に「皆バイトで来たのになんで楽器をやるの?」と尋ねる始末だった。
僕らは「空き時間に練習できると言われたんで…」とショックを受けながら答えると、
「昼食の片付けと、夕食の準備までは休憩があるけど、釣り堀の客が来たら店番は頼むよ」と、
若旦那に朗らかに言いのけたのであった。
僕らは移動の疲れと、精神的ショックでくたくたになった。
しかし、明日からは早速、宿の食事や掃除、雑用に、と立ち働かなくてはならない。
僕らはとにかく早く一息つけたかった。

案内されたのは4つ並びのバンガロー。
そこが僕らの寝床だった。
しかし、一人一室ではなかった。
4つ並びのうちの1室が僕らにあてがわれ、
その6畳ほどの狭い室内にどうやって入れたのか2段ベッドが2つあり、
僕らはそこに寝る運命だった。
僕らはその光景をげんなりと眺めながら、
ここでこれから男4人で1ヶ月以上共同生活するのだ、と覚悟しなければならなかった。
荷をほどいたあと、僕らはバンガローの室内を掃除した。
そして、夕食、風呂を済ませた。
洗濯機のある場所やら(自分達の洗濯は当然自分達でする)、
どこのトイレを使用すればいいのか、などもチェックした。
そうこうしていると、ブレーカーが落ちた。
部屋でドライヤーを使った所為だったか、何だったかは憶えていない。
ただ、どっと疲れが増したことを記憶している。
僕らは一旦母屋へ帰った若旦那を再度呼びに行き、対処してもらった。
ひと段落した後、僕らは「とりあえずもう寝よう」と話し合った。
明日から早く起きなきゃいけないのだ。
その瞬間、今度はパン!という破裂音がバンガローに轟いた。
2段ベッドに登った岩井君が脳天で蛍光灯を割ったのだ。
ほの暗くなった室内に、破片や煙が舞った。
僕らは虚脱状態になった。
あかん。これはもう最悪や。
悪夢を見てるようだ。
もう寝るどころじゃない。
また一から掃除しなければ…。
ちなみにこの岩井君、僕のアルバムに時々クレジットされている鍵盤奏者です。
苦楽を共にした、古い友達なんです。



(つづく)

2010年9月30日木曜日

クリムゾン・キングの宮殿

僕は大学時代、ピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部という音楽クラブに在籍していた。
ただ勧誘されるがままに主体的なものは何もなく入ったのだ。
だから最初は居心地があまり良くなかった。
でも、そのうちクラブ内に仲の良い友達が沢山できてくると、
何となくクラブ自体にも愛着が出て来たのだった。
軽音学部なんかに比べると“頑張ってるけど、報われない感”があって、
しかし、こんな名称じゃ仕方ないわ、というヌルさもクラブ内にどこかあって、好きだった。
何となく僕を守ってくれるような気がしたもんだ。
しかし、それは今になって思うことで、当時はもう少し熱かった。

2回生になった時、新入部員を勧誘するにあたって、僕はクラブを宣伝する看板を任された。
大学の構内に立て掛ける大きな看板を描き、設置するという係だ。
で、僕らニ回生は考えた。
多くの新入生を獲得する為にクラブの名前のイメージを少しでも変えるデザインがいいな、と。
…で、ミーティングを重ねみんなで考えた挙句、
その答えはこのアルバムのジャケットだ、という極論に達してしまったのだ。
キング・クリムゾンの衝撃的なデビュー・アルバム。
プログレ好きな若人を少しでも惹きつけようぜ、という大胆な企て。
それから一週間かけて、僕はみんなに手伝ってもらいながらこのジャケットの拡大版完コピ看板を描き上げたのだった。
それはかなり本物に近く、随分と迫力もあった。
なんせ自分の背丈より大きいのだ。
はっきり言って美術部の看板より明らかに優れており、技術もあり、
僕は我ながら惚れ惚れとしたのでありました。
当然みんなも気に入ってくれた。
…しかしだ。
結果的にプログレ好きな一回生など一人も入ってこなかったのだ。
大失敗だったわけである。
入部してきた一回生に「あの看板見た?」と訊くと、
「あれを見て入ろうかどうか迷いました」と言われる始末だった。

“頑張ってるけど、報われない感”
…僕は入部して1年もがいているうちにすっかりピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部に相応しい一員となっていたのであった。
メデタシ。メデタシ。



(2000年頃に書いた文章を転載)

2010年9月27日月曜日

紡績工場

高校を卒業し大学に入学するまでの春休み、小遣い稼ぎのアルバイトをした。
実家からチャリで20分程走った所にある紡績工場で。
そこはかなり大きな工場だった。
ガッタンゴットン、と絶え間なく大型工機のノイズが鳴っていて、
工場の入り口から続く細長い通路は先が霞んで見えないほどだった。
働く時間帯は「朝5時から昼1時」「昼1時から夜9時」の二つ。
それを1週間ずつ交代勤務していく。
僕はそれまで腑抜けた高校生活を送っていたので、
そのスケジュールがきつかった。
毎朝、暗い時間に起きるのはまさに試練。
しかも、労働自体もハードで、毎日退屈な繰り返し作業ばかり。
僕が担当していたのは、糸の精製の初期段階で使う機械のひとつ。
終業時にはいつもクタクタになり、休日は寝るだけになっていた。
また次の週が始まるという前夜には、相当に気が滅入ったものだ。
しかし、工場にはそれを何十年も続けているオッサンがいた。
無口なオッサンで、足を引き摺っていて(過去に機械に挟まれたのか?)、
僕がサボっていても何も言えない人だった。
その事実にも気が滅入った。
僕は自分の時給800円を指折り数えながら、いやいや仕事を続けた。
この頃、僕はアラン・シリトーが書くような労働者階級の生活を身をもって体験していたのであった。

さて。
ここからが本題なのだが、その紡績工場にはやたらと若い女工さんがいたのだ。
彼女らはみんなてきぱきと真面目に働いていて、
工場を回している原動力ぐらいのパワーを僕は感じた。
そんな彼女達、もちろん仕事中は私語を謹んでいるのだが、
休憩に入ると、みんな途端に元気に喋りだす。
それが何故か、東北弁なのだ。
僕は半分以上何を言ってるのか聞き取れなかった。
最初、全然事情を知らなくて、
僕は「なんか変なブームが来てるんだなー」などと思っていたのだが、違った。
彼女らは青森で中学を卒業した後、集団就職で来ている女の子達であったのだ。
誰もそんなことを事前に説明してくれなかったし、思ってもみなかったことなので、僕は驚いた。
終戦後の高度成長期にそういった集団就職があった、という話は知っていたけど、
現代でもまだそういう習慣が続いていたのか、と。
しかも、その人達が都会ではなく、自分の住んでいる町に来ていたのか、と。
全然知らなかった。
彼女達は町とは隔離された特異な環境、大きな工場の中で秘密のように生きていた。
だから僕なんかに知る由もなかったのだが。

工場の広大な敷地内には寮があった。
会社が責任を持って、彼女たちを預かっているという格好だった。
僕はバイト面接の時に「女の子には絶対に手を出さないように」と忠告されたことを思い出した。
おそらく彼女達も「地元の男には心を開くな」と教育されていたに違いない。
とにかく、彼女達はタフだった。
与えられた仕事を黙々とこなし、不満をこぼすこともなく、きびきびと動き回っていた。
そして、休憩時間になると、食堂で素早く食事を済ませた後、
(本当に息抜きが出来る)寮の自分の部屋へと帰っていった。
で、ものの10分もしないうちに寮から出てきて、
またいつもの労働に戻っていったのだ。
仕事が終わったら、その後、定時制高校へ行き、勉強するのだという。
僕は毎日クタクタだったというのに…本当にタフだ。
よく考えたら、僕は高校を卒業していたので彼女らよりも年上だったことになる。
情けないなぁ。

数週間後、春休みも終わりに近づいた時。
僕は短期バイトだったので、そこをあっさりと辞めた。
そして、新しい大学生活を向かえることになった。
話はここで終わり。
ぷっつり途切れる。
彼女らがその後どんな人生を歩んで行ったのか、僕はまったく知らない。
だけど、何となく今でも気になっているのだ。
工場は数年後に閉鎖された、という噂を友達から聞いた。
でも、僕は彼女達が今でもあの工場で元気に働いているような気がする。
そんなはずはないのだが。


BGM:

2010年9月15日水曜日

スリリングな床屋

その昔、僕はスリリングな床屋に通っていた。
高校生の頃だ。
カミソリ使いが下手な床屋、親父がモーロクしている床屋、もみあげはテクノにしますか?
といまだに訊いてくる床屋など、危険な匂いを放つ床屋は色々とあるだろうが、
そこだけは特別だった。
何とそこの床屋の主人は、人を殺したことがあったのだ。
昔殺人を犯して、今は刑期を終えた主人が髪を切ってくれるのだ。
カミソリで顔も剃ってくれる。
僕がその噂を聞いたのは、そこに通い出してからしばらく経った後だった。
何も知らないで僕はその床屋に「ちょっと安いから」という理由だけで何ヶ月も通っていたのだ。
散髪の腕の方は特に問題なかった。
ただその主人は的場浩二似の無口な中年男性で、得も知れぬ迫力があったのは確かだった。
通い出した頃から僕は目付きがマジでちょっと怖い感じだな、
と思っていたのは確かだったのだ。
時々シェパードやシベリアン・ハスキーと不意に目が合って、その攻撃態勢のマジ加減に怯むことがあるけれど、それに近い。
散髪の仕上がりに文句を言おうものなら、一喝されそうな眼力があった。
僕は「噂は噂だろう」と思おうとしたものの、その情報筋はかなり信頼できるもので、
どうやらそれは間違いなく事実だった。
僕は主人のあの迫力と“元殺人犯”という影の肩書きを重ね合わせて、
戦々恐々としてしまったのだ。

問題はそこから先だ。
そろそろ髪が伸びてきて、散髪しなきゃならんな、と思った頃。
僕は選択を迫られた。
いつものようにその床屋へ行くか、それとも別の床屋を開拓するか。
いつものように行く、とは言っても僕はもう伏せられた事実を知ってしまっていた。
意識せざるを得ない。
人を殺した人にこの身を無防備に預けなくてはならない。
無論、いきなり理由もなく殺されたりするわけはないのであるが、
どう考えてもやっぱり怖い。
相手はハサミ、カミソリをその手に握っているのだ。
もしかしたらドライヤーであぶり殺されるかもしれない。
じゃあ、やめればいいじゃん、と思われるかもしれないが、
そういうわけにもいかなかったのである。
僕は堂々巡りの考えをするうちに、別の床屋へ行く事がその主人に発覚したらヤバイ、
と恐れてしまったのだ。
常連だったのに他の床屋に乗りかえたとバレた時、
殺意が芽生えるかも…と考えてしまったのだ。

僕は悩んだ。
十代の頃、特に悩んだ経験はないものの、この時ばかりは悩んだ。
先生にも相談できなかった。
これはもう究極の選択である。
で…、結局どうしたか。
そう、僕はその殺人床屋へ、意を決して行ったのであった。
あの主人に殺意を抱かせない道を選び、ボサボサの髪を乗っけて行ったのだ。
客は僕一人だった。
店には元ヤンキーといった風采の奥さんらしき女性と、
例の主人が不機嫌そうに待ち構えていた。
入った瞬間に僕はもう後悔してしまった。

殺される。

何故かそう思ってしまった。
そう思ってからは地獄だった。
今まで感じたことのない緊張感が全身に走り、それが店じゅうに伝わっているような気がした。
僕はその緊張感をごまかそうと、何とか平静を装うとした。
主人は「今日はどうされます?」と訊いてきた。
僕は「任せます」と答えた。
これがまずかった。
元殺人犯は「任せます」がお気に召さないのだった。
一瞬、間(ま)が空いた。
僕は殺気を感じた。
もうダメだ!
死ぬ!
すると、奥さんが絶妙のタイミングで助け船を入れてくれた。
「いつもと一緒でいいですよね」
「ハ、ハイ!」
彼女は命の恩人だ。
今、僕が音楽活動をできるのも全て彼女のおかげだと言ってもいい。
ともかく、その日の散髪は終わった。
僕の髪型は妙にぴっちりしていた。
模範高校生のようであった。
全然ロックじゃなかった。
パンクなんて海の向こうの話だった。
でも、全然よかった。
次の日、学校で「ぴっちりしてるやん」と友達にからかわれたが、
もう僕はどうでも良かった。
生きてあそこから帰れただけで幸せ、
とその“ぴっちり髪型”を愛しく思ったぐらいだった。

スリリングな床屋。
その床屋は数年後、いつのまにか無くなっていた。
僕はその後もしばらく通ってはいたが、大学生になってからは行かなくなった。
僕は店をたたんだ理由を考えてみた。
元殺人犯、という世間の風評に負けたのだろうか。
案外、主人が体でも壊してしまったのだろうか。
奥さんと別れてしまったのであろうか。
それとも、客に逆上して殺してしまったのであろうか。


(2000年頃の文章を転載)

2010年9月13日月曜日

Cryptic Creeps

人生初のバンドが「爽やかポップ」だったが故に早々に解散したという話は前回書いた。
しかしながら、解散したという意識は他のメンバーには無かったかもしれない。
何故なら次のバンドもエスカレーター式に同じメンバー構成になったからだ。
結局、みんな仲良しだったから、高校生の頃は得てしてそういうことになるのである。
ただし音楽性は思いっきり振り切れて、今度はハードコアなメタルを目指した。
バンド名はCryptic Creeps。
今度はコピーもやった。メタリカの「Damage Inc.」は決めの1曲だった。
僕は歌わず、ギターと曲作りに専念。
ヴォーカルは状況に応じて変わったりしていたな。
そのバンドでは高校の文化祭なんかにも出た。
めちゃくちゃだったけど、今ではいい思い出になっている。
地元のバンド・コンテストなんかにも出て「特別賞」というものをもらったなぁ。
何だか微妙な賞だが、要するに他のバンドと同じ土俵で評価してもらえなかったんだろう。

Cryptic Creepsはしかし、バンドでの活動よりもギターとヴォーカルだけのオリジナル曲をカセットに録音することの方に重点を置いていた。
メイン・ヴォーカルは前回も紹介した、ちょっと変わった人である「よっちゃん」である。
彼はシュールでお下劣なオリジナル・ギャグを幾つか持っていた。
下らない内容なんだけど、勢いと押し出しの強さだけで周囲を笑わせてしまう破壊力があった。
僕はゴリゴリのメタル・リフを作り、そこに彼の人間性を乗せてみたのだ。
基本1曲1分のスタンスで、カセットのAB面に何十曲も収録する、という悪ノリぶり。
当時、人気のあったアンスラックスとかビースティー・ボーイズのノリに影響を受けつつも、
メタルのギターリフと、瞬発的で意味不明なギャグのみで構成する音楽だったから、
これはかなり画期的だった。
未だかつてこういうメタルはなかった(恐らくこれからも出てこないだろう)。
友達に教室で聞かせたら、笑い死にしそうになっていたもんだ。
内輪受けでも、何となく面白そうな空間が出来ていればOK、という風潮が80年代後半にはあって、そんなムードにもマッチしていた。
音はローファイそのもの。同時代のダニエル・ジョンストンやセバドーの初期作に近い音像。
当然ビッグになる、などという観念は毛頭なく、
ただ自分達が笑えるものを作っていただけだった。
普通の高校生がバンド・ブームに浮かれていた時期に、
僕らはかなり独自の道を進んでいたことになる。
しかし、100曲以上量産し、色々とアイディアを練っていたこの頃の経験は、
その後の“まじめな”活動にも絶対に活かされていると思う。
自分で決めたコンセプトを誰の意見にも左右されずまっとうする、
という創作の流れはさほど今と変わらない。

というわけで、今回は聴いてみました。
その時の音源を。

カセットには「Cryptic Creeps 4」と書いてある。
4作目ということか。
しかし、聴きだしたらカセットが途中で空回りして止まってしまった。
テープが経年変化で劣化しているのだろうか。
でも、正直な話…
今はそれ以上聴かなくてもいい気分だ。
「糸こんにゃく~!」などとサビで叫んでいる1曲目のタイトルは「死ね!」。
こ、これは…ひどい。
どうしたもんだろうか。
確かに(あまりにひど過ぎて)くすっと笑ってしまったのは認めよう。
しかし、これは若気の至りと言うしかない代物だ。
前言撤回します。
こりゃダメだ。
この時代の僕は瘧がついていたとしか思えない。
何考えてたんだろうなぁ?
僕も記憶の中で美化し過ぎ。
その後の“まじめな”活動に、これの何が活かされていたんだ?
100曲も作るなよ…。
これはもう門外不出、決定。
Cryptic Creepsよ、永遠に。
以上。


BGM:The Drums / The Drums

2010年9月4日土曜日

初めてバンドを組んだ

高校2年生の時、初めてバンドを組んだ。
バンド名はフローズン・テイル。凍った尻尾。
メンバーは学校の友達で、半分が初心者だった。
曲はいきなり僕のオリジナル。
定石通りなら簡単なコピーから練習に入りバンドの音を固めていくところだろうが、
僕はそんな回り道はイヤだった。
簡単な曲がいいのなら、それを書いてやる。
こうである。
まぁ、そのあたりは10代なので無理がきいた。
初めてだからと言って臆することはない。自分にやれることをやってみるだけだ。
実際、何とかなった。
リズム隊の二人は中学からブラスバンド部を続けていたおかげで頼りになった。
当然彼らは飲み込みも早いわけで、バンドは自然と様になっていった。
自分の曲が練習スタジオで具現化していくのを見て、僕はすごく高揚感を感じた。
それまでは頭の中だけで構想するだけだった。
それとはやはり雲泥の差、である。
勿論、演奏自体は個々の技量も含めて修正点は沢山あったけれども、
その課題が現実のものとして目の前にある感覚が強烈だった。
僕は完全に夢中になった。

因みにどんな曲をやっていたかというと…、ネオアコ+パワーポップみたいな英語曲。
アズテック・カメラが『ストレイ』で見せた方向性に近いかも。
でも、数ヵ月後、メンバーの中でその「爽やかさ」をバカにした奴が出たので、
僕はやる気を失ってしまい、フローズン・テイルは1回のライブだけでお仕舞いになってしまった。
何ともあっけない。
しかし、確かにそこは滋賀県の田舎町。
似合う音楽と似合わない音楽がある。
僕はそう思うようにした。

そのバカにしたメンバーというのがもう一人のギター、よっちゃんだった。
(野村義男の「よっちゃん」と違う関西風イントネーションで読んでね)
これがかなりのツワモノ。
エレキギターは親戚から譲り受けた、とか何とかで、
しかし弦の張り替え方を知らないので、気が付いたら弦1本で練習をしていたという高校生。
僕は驚いて「それで何を弾いてたねん?」と質問すると、
「ライトハンド。」という答えが返ってきた。
事実、よっちゃんはライトハンド奏法がすごく巧かった。
(それだけ1本弦ギターの時代が長かったことを意味する)
その1本が切れたらギターをやめるつもりだったのかもしれないが、
運良く残り1本のところで、僕と仲良くなり彼はバンドに加入することになった。
僕はすぐに弦の張り方を教えてあげた。

そんなよっちゃんだが、バンド加入にあたってもうひとつ些細な問題があった。
それは、ギターは持っていてもギターケースが無かったことである。
それでは外出できないのである。
ストラップで肩にギターをかけてそのまま自転車に乗ればええやん、と僕は言ったが、
それはキカイダーみたいでイヤらしかった。
「明日、雨が降ったら練習に行けない」と言われた時はさすがに僕も「ケース買えよ」と言った。
そんなある時。
よっちゃんは練習スタジオにギターをアディダスのボストンバッグに入れてやって来た。
でも、それではネックから上がバッグから突き出てしまう。
そこで彼は考え、そのネック部分に紫色の風呂敷を巻いて、登場した。
何かと思えば、ギターか。
僕はそう言った。
風呂敷をひらくとストラトキャスターは少し恥ずかしそうだった。
ちょっと上等な日本酒みたいだった。
練習スタジオで僕らは笑ったものである。

その帰り道。
駅の近くで偶然僕らはクラスの女の子2人とすれ違った。
別になんてことはなく、ただ軽く会釈しただけだったのだが、
よっちゃんだけが、ひどくうろたえていた。
他のメンバーが肩からギターケースを提げているのに、
自分だけ自転車のカゴにボストンバッグを入れていて、
しかもそこから紫の風呂敷に包まれた長いものが突き出ているのである。
やっとそれが恥ずかしい、ということを感じたようである。
「じょ、女子に見つかってしまった…」
さっきまで勢いよく笑っていたよっちゃんはひどく落ち込んでしまった。
帰り道、10回以上は「バレてしもうたかなぁ」というセリフを聞いた。
僕は半分呆れながらも「大丈夫や。誰もそれがギターやとは気がつかへん」とフォローした。
まぁ、そういうこともあってか、
彼は数日後、ギターケースを買ったのであった。
それ以来、女子とばったり出会うことはなかったけどな。

(つづく)

2010年8月30日月曜日

孤独な闘い

大昔のこと…僕がまだ地元・滋賀で中学生をやっていた頃、
5つくらい上の先輩(同じ学区だと思われる)が突然モヒカン頭になった。
皮ジャンに細いブラック・ジーンズ、そそり立ったモヒカン、
という出で立ちで颯爽とチャリをこいでいる姿を僕はある日突然目にし、ぎょっとしたのだ。
何だ?今のは…?。
あっけにとられた。心臓がドキドキした。
その先輩のことはよく知らなかった。
でも、顔はどこかで見たような覚えがあった。
恐らく僕が小学校に入った頃、モヒカン先輩は高学年にいたのだろう。
でも、あやふやな記憶の上での話だ。はっきりとはしない。
しかし、とにかくその顔は前にどこかで見かけた顔だっただけに、
僕は余計に衝撃を受けたのだった。
知ってる人があんなになってる。
いわゆるそれが極道パンクの生きる道だということも知っていた。
当時読んでいたミーハー洋楽雑誌ミュージック・ライフでも一応は(日本発売されてるなら)そういうハードコア・パンクも載っていた。
もう白黒ページのほんの隅っこの方にだけだったが。
でも、それはそれは強烈で、異彩を放っていたもんだった。
この全体に黒くてよく見えない写真は何?、アナーキーって何?、ポジパンって何?
中学生の僕にはとても危険な匂いがして、そのページの一角へはとても足を踏み入れられなかった。

今ならモヒカンも一般的認知があるだろう。
普通の人気バンドにもモヒカン頭はいるし、
ベッカムが流行させた新種ソフト・モヒカンみたいにちょっとした浮ついた気分で仲間入りすることだって出来る。
でも、当時のモヒカン頭というのは相当覚悟を決めないとできない髪型だった。
どこか遠い外国で起こっている話ではなく、
現実にその異端な髪型をして町中を歩かないといけないのだ。
勇気だってかなりいるだろう。
自分という存在すべてをパンクに捧げる決心がないと出来なかっただろう。
それに、敢えてもう一度書くが、これは大都市での話でもない。
滋賀県の片田舎での話だ。
誰も注目していないそんな場所で、その頭で生きていかなきゃならんのだ。
・・・。
今にして思うことは、モヒカン先輩はずいぶん孤独な闘いをしていたんだなぁ、ということ。
21世紀のポップ・パンクをやる上で(ファッションのひとつとして)モヒカン頭を選択するのとでは次元が違う。
まぁ勿論、現代のモヒカンさん達もどこかで闘ってはいるのだろうが、これだけは言える。
彼らは今、そんなに孤独ではない。
そう、モヒカン先輩は本当に孤独だったのだ。
僕の田舎には、他にあんな頭をした人は誰一人としていなかった。
孤独だったからこそ、モヒカン先輩はとても気合いが入っていたし、本物のパンクだった、と僕は今思うのだ。

そんなモヒカン先輩に僕はある日、急接近したことがあった。
小泉町の田中書店へ立ち読みに行ったら、
モヒカン先輩が一人でマンガを立ち読みしていたのであった。
その時は「やべぇ人に遭遇した!」と思って、そそくさと退散したのだが、
ちらっと見えた先輩の横顔は案外素朴だったことが印象に残っている。
そして、何だか淋しそうだった。
平日の昼間っからママチャリを漕ぎ本屋に立ち読みに来るぐらいだから、
あんまり良い人生ではなさそう…ということ以上に彼のパンク極道と比較して、
その行動が実にアンバランスで、何とも言えない寂寞感が漂っていたのであった。
モヒカン先輩だって「キャプテン翼」を読みたかったんだ。
僕は家に帰りながら、そう思った。
しかし、そんな冴えない立ち読み時でも先輩はきっちりモヒカンを立てていた。
言いかえれば、そんな時でもモヒカン先輩は闘っていたのだろう。
パンクスとしての矜持をモヒカン先輩は立ち読みの時だって、捨てていなかったのである。
あの姿は本当にものすごく孤独な感じがした。
時々僕は不意にモヒカン先輩のことを思い出すことがある。
あれから何年経ったのだ!
随分昔のことのように思える。
モヒカン先輩はただのオッサンになってしまったのであろうか。
それとも、まだ滋賀県のどこかで埋もれながらも闘っているのだろうか。
僕もひとつ頑張るとしよう。
最終的に僕はいつもそう思うのだった。


(2000年頃の文章を転載)

2010年8月27日金曜日

ミニFM局

またまた中学生の頃の話。
前回にも登場した友人D君と僕は、ミニFM局というものをやっていた。
今で言うとPodcastやUstreamみたいな存在だろう。
トランスミッターというFM周波数を出す機械で、
自分達で作った番組を半径50メートルに向けて放送するのだ。
半径50メートル。
そう、たったそれだけの規模である。
しかし、実際に携帯ラジオを持って近所を歩き回ってみると、
ちゃんと自分達の声や選曲が聞けたのである。
これには思わずほくそえんだ。
FM周波数はたしか75.0だった。
全世界とつながってるネットもいいが、ミニFMもなかなかのものだった。
そして、これが80年代前半にちょっとだけ流行っていたそうである。

僕は全然詳しくなかったのだが、FM文化に憧れていたD君がそういうことに熱心だった。
当時は専門の雑誌が何誌もあるぐらい、FMは最先端で人気のメディアだったのだ。
ついでに言うと、D君は小林克也にも憧れていた。
ミニFMだったら、自分もすぐにDJになれるのである。
そんな彼が僕を勧誘した。
親がラジオ局に勤めていて、しかも家にレコードが沢山あって、
オープンリールとかミキサーとか特殊な機材も準備できる、
そんな僕を誘うのは当然の成り行きだった。
僕はすぐに乗り気になった。
そして、ミニFM局を開局することがあっさり決まった。
その話を父親に話したら、翌週にはもうトランスミッターが家にあった。
D君はその展開の早さに手をたたいて喜んだ。
うちの父親は新しいモノ好きで、
息子がラジオの真似事をすると聞いたからには辛抱ならなかったのだろう。
すぐに資料を取り寄せ、注文してしまった。
僕も自分の息子がギターを買いたいと言ってきたら、
すぐに買ってしまうかもしれない。
まぁ、そういうもんだろう。

「Yellow Kong Station」 これが僕らの番組名だった。
何とも絶妙に80年代っぽい「微妙な」ネーミングで恥ずかしい。
さすが中学生。
考えたのは確かD君で、僕はロゴとイラストを考えた。
そしてピアノでジングルまで作った。
「楽しそうなことしてるやん」と友人K君も仲間に加わった。
僕らは学校の10分間の休み時間にもわざわざ集まって、
番組についての会議をひらいた。
そんな甲斐もあり、放送は第一回目からうまくいった。
そう記憶している。
楽しかったのは楽しかった。
しかし、その一方で虚しさもあった。
そう。半径50メートル問題だ。
友達にこう言うことも考えた。
「明日、夕方4時頃、うちの近くにまで来てラジオを聴いてくれ」と。
しかし、それだったら普通に家に遊びに来ればいい話だった。
D君と話し合った結果、結局は番組をカセットに録音することにした。
そして、それを友達のあいだで回していくのだ。
もはやFMでも何でもなかったが、しょうがない。
聞いてもらってナンボだ。作るからには友達にも聞いてもらいたかった。

というわけで「Yellow Kong Station」のカセットは学校で出回ったわけだが、
これがなかなか好評を得た。
D君はもともと学校で人気者だったし、中学生が自分達で番組を持っていて、
好き勝手なことを喋っている、ということ自体が画期的で、かなり面白がられた。
次の番組のテープを早く貸してくれ、という声があちこちから起こった。
僕らはその声にテンションが上がり、暇な週末を見つけては番組を作っていったのだ。
ネタには事欠かなかった。
みんな音楽好きだったし、それぞれが好きな曲を持ち寄ってはそれを紹介していった。

残念なことに今現在、僕の手元にあの当時作っていた番組のカセットは残っていない。
つまり、誰かから誰かへと渡っていったカセットは僕の所には戻ってこなかったことになる。
アバウトだったから、特に貸し出しの台帳とかも作っていなかった。
まぁ、しかし、それを自分が今聞き返せないことは幸せなのかもしれない。
聞いたら絶対に赤面ものだろうから。
この歳になって赤面はイヤだ。


BGM:Surf's Up / The Beach Boys

2010年8月19日木曜日

林間学校

音楽を意識的に聴くようになったのは小学校6年生くらいであっただろうか。
両親がラジオ局で働いていた事もあり、僕のうちは音楽がいつも身近なところにあった。
レコードの扱いを教えてもらってからは、ちょっと背伸びした気分でそれを楽しんだ。
傷をつけないよう大事に大事にシングル盤をターンテーブルの上に乗せ、
針を落とし、出てくる音に耳を傾けていたものだ。
聞いていたのは当時の歌謡曲のシングル盤。
でも、それだけじゃ物足りなかった。
洋楽ロック一辺倒になるのは、中学2年生以降になる。
そこから僕の本格的な音楽生活が始まった。
時代は完全に80年代旋風が吹いていて、僕もその大波に飲み込まれた形。
クラスの友達の多くに影響されながら色んなものを聴いていった。
レンタルレコード屋にもよく通った。
家が近所だった友人D君とは、日曜日、二人で約束して午前中からレンタルレコード屋へ行き、
当日料金(50円引きになる)でLPを3~5枚ほど借り、
真っ直ぐ自宅へ帰りそれをカセットに録音した後、昼過ぎにまた二人で待ち合わせ、
お互いに借りたレコードを交換してさらにそれを録音…ということをやっていた。
夜に返しに行く時はヘロヘロになっていたもんだ。
それだけ貪欲に新しい音を追いかけていたのだ。
しかし、それだけでは話は済まぬ。
また別の友達からはカセットを貸りて、それをさらにダブルデッキでダビングしたり。
ダビングのダビングだと音がモコモコしてたよな。

そんな頃、中学2年の秋。
林間学校っぽい泊りがけのバス遠足があった。

希望が丘の青年の城。 当然その宿泊の夜は、友達同士でロック談義となる。
友人M君は規則違反のウォークマンを持ってきており、
それがさらに皆のテンションを上げさせた。
大部屋に並んだ二段ベッドの上、順番でそれを聴くことになった。
先生の見回りがあってヤバいのだが、そのワクワク感はハンパじゃなかった。
しかも、M君が持ってきていたカセットが驚異のメタル・バンド、WASPだったのだ。
股間にノコギリを立てて放送禁止曲を歌う、という噂の新人だ。
まだそれを聴いたことがなかった僕としては、これは是が非でも聴いておかねば、という気持ちになった。
ジャージ姿の中学2年生たち。可愛いものである。
僕の順番が回ってきた。
僕は二段ベッドに登り、おそるおそるウォークマンのプレイボタンを押した。
すると出てきたのがド派手なメタル・サウンド。
そして凶暴で邪悪なダミ声ヴォーカル。
僕は度肝を抜かれた。
でも、ビックリするほどサビのメロディーがキャッチーで…と思っていた瞬間、
誰かが小声で囁いた。
「先生が来たぞ!」
その場に戦慄が走った。
緊迫した空気になり、皆が皆取り繕うような素振りを見せ、あたりがシーンとなった。
まだ就寝時間でもなかったので適当に雑談していればいいものを、
シーンとなってしまったことで「何か悪いこと」をしているのがバレバレだった。
僕はとっさに、これはカセットを止めなければ現行犯になる!と思い、
ガチャガチャとストップボタンを探してカセットを止め、枕の下にウォークマンをササッと隠した。
ジャージの下で心臓がドキドキと打っていた。
が、先生の見回り情報はガセだった。
実際は大部屋の前を通りがかっただけであった。
僕らはほっと胸を撫で下ろした。
でも、ロック談義はそこでお開きとなった。
僕もこれ以上ヤバい橋は渡れない、と思った。

後日、僕はM君から改めてWASPのカセットを借りた。
やっぱり気になっていたし、「先生が来た!」というあのガセネタが出た瞬間以降の曲も、
ちゃんと聴いておきたかった。
かくして、今度は自宅でゆったりした気分で聴けた。
1曲目。例のキャッチーなサビの部分。
しかし、ここで急にM君のカセットから「チュルチュルチュル」という音がした。
おやっと思った…が、原因はすぐに分かった。
原因はあの夜の僕だった。
きっとストップボタンを押さないといけないところを、
焦って録音ボタンと巻き戻しボタンを同時に押してしまったのであろう。
ほんの0.3秒ぐらいだが、テープが巻き戻る音が録音されてしまっていたのだ。
「チュルチュルチュル」
ヒップホップのスクラッチ音じゃあるまいし、サビが台無しになっていた。
翌日、僕はM君に謝った。
M君は大目に見てくれた。
あの状況だったから、逆にそれは笑い話になったぐらいだった。
で、僕はと言えば、ちゃっかりその「チュルチュル版WASP」をダビングさせてもらっていた。
その後も何度か聴いたのだが、その度にあの「チュルチュル」が耳に入った。
そして、その度に楽しかった林間学校の夜を思い出したのである。

(つづく)

2010年8月4日水曜日

ギターを始める

僕がギターを初めて買ったのは高校一年生の時。
メーカーのカタログを目を皿のようにして読み、雑誌の広告を飽きるほど眺めた後、
京都へ出て、四条の楽器屋でドキドキしながらレスポールを買ったのだ。
その日の事は今でも鮮明に憶えている。
しかし、そこへ行き着くまでには長い道のりがあった。
別に道路事情の話ではなく、買うまでに至った僕の中での道のりのことである。

そもそもギターを弾きたいと思ったきっかけは中学の文化祭で友達のバンドを観たこと。
当時は空前のバンドブームが到来する数年前。
友達のバンドはめちゃくちゃ輝いて見え、それは到底普通の光景ではなく、
とびきり特別なことのように思えた。
僕は衝撃を受けたのだ。
それまでに曲を作り始めていた僕は「やっぱギターを弾かな始まらん」と思った。
その時までは家のピアノを使っていたが、まったく理想の世界へと近づいていなかった。
(注:小学校の時にピアノを習っていたのです)

しかし、それで次の日エレキを買いに走る、といったお決まりのストーリーにはならない。
僕の場合。
自信がなかったので、まず僕は友達O君からアコギを借りた。
練習を始めて、向いていないことをギターを買った後で知るのはイヤだった。
それで、買う前に少しは弾けるようにしておこうと考えた。
自分で言うのも何だが、自分は全く信用ならないヤツだったので、
まずはそのヤル気に疑いをかけたのは当然の成り行きだった。

しかし、実は友達にギターを借りよう、と決心するまでにもストーリーはあった。
友達にギターを借りて、全く上達しないまま返却するときっと恥ずかしいに違いないので、
借りる前にちょっと練習しておこうと思って、
木とダンボールで原寸大のギター模型を作ってみたのだ。
で、それを抱いてみて、ステレオで曲をかけながら、エアギターのように手を振り、
それがどんな感覚のものなのか、自分自身で確かめたかったのだ。
空手の「形」は基本中の基本だが、僕もギターの基本中の基本を身につけたかった。

ネックは近所の材木置き場に落ちていた木片だ。
ボディはダンボールをカッターで切り取って、それを4枚重ねにして作った。
はじめファイアーバードの形にしたかったのだが、あの絶妙なラインをどうしても下絵に書けなくて、仕方なくフライングVにした。
作っていると、いつしか隣から頭をねじ込むようにして見ていた弟・純(まだ小学生)が、
自分にも弾かせろと主張してきた。
僕は「あかん。子供が触るようなもんじゃない」と叱ったものである。
そして、色を塗った。
ラジコンの塗装用に持っていた銀色のラッカーを塗りたくり、
あとはスイッチやらツマミ、フレットをマジックペンで書き入れ、完成させたのだ。
弟・純はあまりのカッコ良さにビビっていた。
今だったらレニー・クラヴィッツが売ってくれ、と懇願しそうなピカピカの銀色のフライングVだった。

しばらくはそれを弾いていた。
いや、音は出なかったけど、カシャカシャと手とダンボールが擦れる音はしていた。
弾いていると、右手小指の下あたりが銀色になった。
その汚れを見て僕は、今日もよく弾いたなと思ったもんだ(勉強をしろ)。
今現在、僕は弾きたいようにギターを弾けるようになって、
曲を作るのにもギターを大いに役立たせている。
あの頃の事前練習のおかげだと思っている。
本当に。
先日レコーディングで気合が入って何時間もギターを弾いた後、
気が付いたら、弦と擦れてたせいで右手小指の下が黒ずんで汚れていた。
それを見て僕は中学生の頃の「銀色の右手」を思い出したのである。


BGM:Sandinista! / The Clash

2010年7月31日土曜日

とは言え、歌詞なら

(前回からの続き)

とは言え、歌詞ならいくらでも書けるのだ。
自分のことを投影させた、魂を込めた、自伝的なものを。
これが面白いところだ。
音楽の不思議な力を僕はそういう所に感じていたりする。
リズムやメロディーに乗せるべき言葉がするすると出て来る時、
それは自伝的であろうが、完全なフィクションであろうが、
何の引け目もなく僕は自信を持って世に送り出すことが出来るのだ。
そこに自意識過剰云々、という価値観そのものが無用。
音楽のない所での言葉書きでは、瑣末なことに気を揉むくせに、
歌詞だとバッサリ断定できるし、色んな解釈をしてもらっても結構、という態度でいられる。
誤解されたらされたらで、それがあんたのキャパシティだと言い切ってしまえる。
その気持ちの落差は実に面白い。

ま、そんなわけで歌詞について少し書いてみよう。
これなら少し書き進め易いかもしれない。

実は最初、僕は自分が書く歌詞については深く考えていなかった。
高校生から大学生になった頃は、辞書を引きながら英語詞で書いていたぐらいだ。
しかし、それではさすがに自分が歌う内容が直接頭に入ってこない、というので止めた。
考えてみれば、元々いい歌詞が好きだったのだ。
それなのに自分がいい歌詞を書けてるかどうかも分からないのは、もどかしかったわけだ。
そう。洋楽を聴き始めた中学生の頃から、僕はいい歌詞の曲が好きだった。
テレビで対訳字幕つきのブルース・スプリングスティーンの「リヴァー」を観た時は鳥肌が立ったものだ。直接英語は聞き取れなくとも、その意味さえ頭に入ってくればその曲のエモーションが直接伝わってきて、ゾクゾクするような感覚を味わえた。
その後、ボブ・ディランやミック・ジャガーの素晴らしき詩才にも感銘を受けたりしていた。

そういう自分を思い返しつつ、僕は20歳の時、初めて日本語詞に挑んだ。
最初はどんな風になるのか分からないまま、書いてはボツ、書いてはボツというのを繰り返していたように思う。
誰とも相談せず、それをやったところで何になるんだろうか、ということも一切考えず、孤独に創作に明け暮れていた。
日本語詞と言えば、自分の中では阿久悠さんの書く歌詞ぐらいしか慣れ親しんだものはなかったろう(実際「ウルトラマンタロウ」「ウルトラマンレオ」の歌詞にはかなり影響されていると思う)。
そんな中、自己流に進めていった。
作っていると歌詞のヴィジョンが頭の中に次々と行き過ぎていき、
そこから何となく音楽自体の飛躍も生まれそうな気配が出てきた。
そして、何とか人前に出せそうな曲が5曲ほど仕上がり、
その中から2曲を選び、デモテープをレコード会社に送りつけた事が、
今現在へと至るきっかけ、だ。
ポニーキャニオンのディレクターさんに気に入られ「1回東京に遊びにおいでよ」と呼ばれ、
大阪から東京へ日帰りで遊びに行った時、
「徳永君は自分がどこがいいか分かってる? 歌詞がいいんだよ」と指摘された時は、
「曲じゃねーのかよ!」と思ったりもしたが、内心はほっとしたものだ。
このやり方は間違ってなかったと思って。

ちなみに最初の5曲の中からは「気にしないで」「トンネル」が発表されている。
これは今でも新曲に混ざってライブで普通に歌っている。
ちなみついでに、当時のディレクターさんとも今でも親交あります。
昔の話だが、これは断絶の物語じゃないのだ。
ちゃんと今現在へと繋がっている。
そして、僕の孤独な創作も、まだまだ続いていくのだ。


BGM:Harry / Nilsson

2010年7月26日月曜日

自意識過剰

昨日から自分のことをじっくり書こうと思ってパソコンに向かっているんだけど、
大した成果が上がらんもんだな。
こんなこと書いたら誰かが傷つくかも…とか、
誤解されてしまうかも…とか、
自慢話してると思われるかも…とか、
雑念ばかりが頭をよぎってしまう。
一向にはかどらない。
書きたいことは沢山あった筈なんだけど。
なかなかうまいこといかないもんだな。

しかし、これは僕の性格が「控えめで思慮深い」だからってことではないのだ。
それは重々承知している。
実はこれも一種の自意識過剰が引き起こした事態なのだ。
恐ろしや、恐ろしや。
何の引け目もなく堂々と自分の武勇伝を書いてしまえる人と、
結局は同じなのだ。
ザ・自意識過剰。
両者はただ防御の仕方が、ちと違うだけだ。
むしろ自分の内側すべてを曝け出す豪快な自伝を書ける人の方が、
ある意味、自意識を突き抜けた解脱状態で優位なのかもしれん。

そう言えば、数年前こんなことがあった。
今まで一切公表していないと思うが、僕はルービックキューブが好きだ。
ある日、古澤ひかりと喫茶店で打ち合わせをしていた時、
彼女がトイレで席を立ったその間に、
暇だから机の横の棚にあったルービックキューブを解いて、
帰ってきた彼女に見せたことがある。
その時、古澤ひかりは何と言ったか。
「ふーん」
それだけで終わり。
あの時は恥ずかしかった。
得意気になっている自分を見透かされているようで恐ろしかった。
普段、天然気質丸出しの古澤ひかりだから、ついつい僕も油断してしまったのだ。
ついつい自慢してしまった。

本当、自意識過剰はいつ何時も人を落ち込ませる。
でも、だからと言って簡単に放棄できるものではない。
人それぞれ、色々と守っておきたいものがある。
昨日から自分のことをじっくり書こうと思ってパソコンに向かっているんだけど、
まぁ、そういうわけで、あまり進んでいないのだ。
さて、これから何を書こうやら。


BGM:Texas Tornade / The Sir Douglas Band

2008年10月15日水曜日

山で迷子の秋

小学2年生の時、クラス全員で山で迷子になったことがあった。
社会の授業の一環として、みんなでバスに乗る体験をした時だ。
僕らは中川先生という髭もじゃもじゃのオジサン先生に連れられてウキウキ気分でバスに乗り、
近くの山へ行ったのだが、そこで先生もろとも迷子になったのだ。

原因は中川先生が「帰りのバスは山の向こう側から乗ろう。」と言い出したこと。
そして、途中、クラスのトラブルメーカー郷野君が「ぼく近道知ってる!」と不穏なことを言い出し、
こともあろうにその意見に中川先生が乗ったこと。
「よ~し!そっちへ行ってみよう。」
…山をなめちゃいけない。
僕らクラス全員は不安がりながら山道を進んでいったのだが、
案の定しばらく歩いていくと行き止まりになった。
中川先生の顔は少々曇ったものの、まだまだポジティブだった。
「よ~し!引き返そう。」
…そうして完全に迷ってしまった。

中川先生は今から考えると相当に自由な先生だった。
でも、僕らは郷野君をボロクソに言っても絶対に先生のことは責めなかった。
実の所ワクワクしていたし、
先生と一緒にいることで「何とかなるだろう」という安心感があった。
実際のところ、何とかなった。
その後、僕らクラス全員は山の下にあるバス停を見つけ、
そこから無事小学校へ帰ることが出来た。
授業時間は大きく過ぎ、学校は給食後の昼休みだった。
先生は「誰にも言うな」と言った。
そして「腹が減ったので早く給食を食べよう」と言った。
楽しかった。

今でも僕が時々思い出すのは、
迷った山道で木漏れ日のなか落ち葉を踏みしめて歩いた感触だ。
そういった人生の中の眩しい一瞬を誰しも持っていると思う。
『裸のステラ』聴いてみてね。
(おわり)


※JUNGLE LIFE誌のセルフライナーノーツ用にいくつか書いた文章の中のひとつ。
全然ライナーノーツになってないのでボツ。

2006年2月11日土曜日

『スワン』 (2006)

バンド編成としては5年振りとなる作品。…というわけで気合が入った。
5年を経ている空気感は自然と録音に落とし込まれるだろうという想定の元、
選曲には気を遣った。
その構想段階で男女に纏わる曲が多そうだったので、その路線で統一。
やっぱりアルバム毎に大まかなテーマを決めるとモチベーションが保ちやすい。
途中で何がやりたかったか、迷うこともない。
自分の曲に自信が持てるように、ちゃんと冷却期間も設けているし(その間で脱落していく曲もあるということだ)万全の心持ちだった。
リズム録音&ミックスは前作でも一部お世話になった大串さん。
特定の趣味性を出さない、バランスの取れたエンジニアさんで、信頼が置けた。
僕の意見を吸収し具現化させるのも非常に素早い、職人さんでした。
そして、このアルバムからは歌い方を本格的に変えた。
前作でも試していたのだが、感情を抑制してデコボコをなくす志向へと。


1.赤い髪
2004年作。録音はすべて自宅のハードディスクMTR。声は10本以上重ねてある。
この時期、クァルテット・エン・シーをよく聴いていて、コーラスに凝っていた。
譜面とか書けないので、頭がゴチャゴチャになって大変だった。
最後に頼りになるのは耳だけなので、部分部分に欲しいハーモニーを足して完成させた感じ。

2.コートを召しませ
1998年作。昔住んでた東武東上線の駅を思い浮かべて書いた曲。
このアルバムのリズム録音は代々木ステップウェイで行った。1日半で8曲分。
ちゃんとそれで成り立っている理由は、みんな巧いことと、僕という独裁者が決定権をすべて握っていること。民主主義なバンドではこうはいかない。
ドラムは小島君、ベースは吉川君。チェルシーボロでもお馴染みのメンツ。
音は全体にアンビエントの効いたライブな方向性を目指した。

3.7(セブン)
2001年作。ギターのチューニングはEADEAE(2カポ)。
変則チューニングの良い所は自分の中のコード進行セオリーが破壊されること。
これで自然と純度の高い創作になる。この曲はその点ですごく成功している。
デモを初めて聴いたレーベル・オーナーのサカモト君の感想は、
「どうして僕のことがわかるんですか!」
歌詞のことを言ってるんだろうけど、むちゃくちゃな感想だと思った。
録音前のリハーサルでスネアの入る位置を細かく指示して小島君に嫌がられた。

4.ブレーキ痕
2000年作…とは言え、サビは2005年初頭に完全に書き替えた。
弟が某音楽出版社のディレクターから歌詞の一部を書き直した方が良い、と言われたその一部が「ブレーキ痕」。絶対に間違っているその意見に何故か僕が反発し書いた曲。
ベースの動きに細かい注文をつけて吉川君に嫌がられた。
ギターソロはリズム録りしたその日に、勢いで追加。なかなかカッコイイ。

5.サンビーム
1999年作。ギターのチューニングはGオープン。志賀直哉の平成女の子版、という感じか。
サンビームという言葉は元々はヴァセリンズの曲から着想を得ている。
わかるだろうけど、書いた瞬間に傑出曲だと思ったので、すぐに当時のバンドで練習を開始。
『眠りこんだ冬』ツアーのアンコールに新曲としてやっていた。でも、タイミングが合わず、正式発表したのはこのアルバムになった。

6.パーソナル・ノー
1995年作。治らないと言われてた病気が本当に治るものか。そこがこの曲の肝。
歌詞は尋常ではないが、曲調はシンプルなギター・ロック。
しかし、それをそのままシンプルに気持ち良く演奏するだけでは物足りない、という気持ちがどこかにある。だから決して代表曲扱いにはしない。大切な曲ではあるが。

7.ジューンブライド
1996年作。小節を食うリズムのオンパレードで、これがリズム録音の難所だった。
結婚についてテクニックだけで書いたみたいだけど、
ちゃんと気持ちがこもっているので個人的には問題なし。
ライブで歌ってみたいけど、歌詞と歌詞が交錯する部分があるので、どうしても実現せず。
そもそも僕の曲はライブを念頭に書かれていない。

8.S(スピード)
一番古く1992年作。昔(1995年頃?)ポニーキャニオンの顔見せみたいなオーディションでこの曲を歌ったもんだ。その頃までは僕の代表曲だった。
いつしかその青臭さが気恥ずかしくなって封印したんだけど、
今回最後に1曲弾き語りを加えることになった時、何故かこの曲が頭に浮かんだのだ。

9.君へと傾くから
1997年作。「君」の相手が「僕」だとは一言も歌われない、実は悲しい曲。
小島君のドラムはこういうダイナミックな曲調によく合うな。冒頭の豪快なオカズもアドリブ。
僕は「しめた、しめた」と思いながら同時にエレキをグワンと弾いてました。
最後に福永君のヴィオラをオーバーダビングした。

10.僕らはこれじゃ終われない
2000年作。これは完全に僕自身のことを歌った曲で、
書いた瞬間に溜めてたものがどっと流れ出た感覚があった。
本当はもっと重厚なアレンジでトゥーマッチなぐらい盛り上げても良かったのだが、
このアルバムは曲の骨格がちゃんと分かるシンプルな形にしたかったので、これぐらいに留めておいた。
エレキのフィードバック音だけは確か高田馬場のゲートウェイでダビングした。

11.爪の匂い
2004年作で1曲目同様これも自宅録音。僕がキーボードを弾いている曲は、録音前にそのフレーズだけを一から練習して弾いている。かなり面倒くさい。
ただ、地道に少しずつ手をかけているフィーリングがサウンドに沈着していくのは悪くない。
譜面を書けないし、日常的に練習することもないので、後から再現できないのが難点だけど。
「故意」は「恋」に聞き違ってもOKだと思って歌っている。


ジャケットは黒田硫黄氏。そのいきさつについては→こちら
それに伴うタイトル命名については→こちら こちら
いいアルバムです。


BGM:

2004年11月3日水曜日

『サイレンサー』(2004)

いつかは作らないと、と思っていた弾き語り作品。
原点に帰り、殆どの曲をカセットの4トラックMTRで録音した。
当初はまたMuleに出してもらおうと思っていたのだが、条件が折り合わず、一時はリリースを諦めかけた。そんな時にワイキキのサカモト君が現れ「出しましょう」と言ってくれた。
別バンド、チェルシーボロの活動がそこそこ順調だったから、当時は深刻に考えていなかったけど、この時の申し出がなかったら、どうなっていたのだろうと今にして思う時がある。
本当にありがたい話だった。
またサカモト君は、ちゃんとしたエンジニアさんにミックスをお願いすることを薦めてくれた。
この判断も正しかった。粗いカセットの音が適度にブラッシュアップされ、締まった音像になった。
曲もコンパクトながら粒揃い。忘れた頃に聴いて、好きになってやって下さい。

1.盗聴キノコ
ギターのチューニングはCACFCD#。2002年作。
この時期は変則チューニングで妙なインストばかり作ってた。
シンガーソングライターとしては病んでいたかも。タイトルは「ほら、君ん家のキノコにも盗聴器が…」という意。それ以上の深い意味はない。

2.ダイヤに人を見る目はない
このアルバムの曲群は全てアコギと歌を同時に録っている。
言ってみりゃライブみたいなもの。この曲はヴォーカルが2本入ってるけど、
右のふらついている方がギターと同時に録った声である。
ギターのチューニングはCACFCD#。2002年作。

3.日曜大工
親と子の歌だが、子供ができたからといってそういう歌を作るというほど単純な話ではない。
このアルバムの中では一番古い1993年作。新しい曲群の中にこういう寝かした曲を混ぜることによって、アルバムに複雑な陰影が生まれるのが好きなのだ。
グロッケン、コーラスをオーヴァーダブ。

4.不良少女
ギターのチューニングはCACFCD#、そしてカポ。2002年作。
日本人はベタなウェットさが大好きで、いつの時代もそういうものが大衆の心を捉える。
それは重々承知なのだが、自分としてはそこに常に距離を置いていたい。
自分が恥ずかしいと感じることをやれるわけがないし、
そもそもそれを信じてやっている人に勝てるわけがないのだ。
でも、やっぱり僕も日本人なのでウェットなもの自体は嫌いじゃない。
その複雑な心境が表出している曲。歌詞そのものはバカげている。けど、ウェットなのだ。

5.しびれんぼう
2003年作。一人多重録音で、はじめてのアカペラに挑戦。
聴いての通りこれは4トラックじゃない。確かローランドのVSで録ったのかな。
しかし、それでもトラック数が足らなかった。
タイトルは映画「さびしんぼう」風に見せといて、実は卑猥なんじゃないかというギリギリのラインを狙っている。

6.クスクス
1999年作。山椒は小粒でピリリと辛い、という役回りな曲。
いつかこういう短い曲を30曲ぐらい入れたアルバムを作りたい。
それにしても「ハンガー状に男を吊るす」ってメチャクチャな日本語だな。
なんとなく言いたいことは分かるけど。

7.アノラッキー・ボーイ
2002年作のインスト。ギターのチューニングはGオープン。
昔「アノラック」と称された音楽があって、僕も好きだったんだけど、
社会的にはアンラッキーな奴に見えるんだろうな…という意のタイトル。
曲調はまったくアノラックしてないが、フードを被ったアンラッキーなボーイっぽくはある。

8.いつもいつも
ギターのチューニングはCACFCD#、そしてカポ。2002年作。
後半曲のムードが変わる。質素な4つ打ちで、フォークトロニカ的かもしれない。
このアルバムは僕にしては珍しくあまりストック曲を蔵出ししていない。
自分の中では一回リセットする感覚で作っていた。
次作『スワン』以降、またストック曲は出していくんだけどね。

9.ガールズ・フェスティバル
2004年作。アルバム制作終盤に足りない何かを補おうと思って急遽書いた曲。
結局これがリード・トラックになった。
Aメロとサビが同じコード進行なのがミソ。自分的には覚え易い。
PVは渋谷gabowlでのライブ当日にでいきなり撮ることになった。
アルバム音源は用意されてないし、あまりに無計画だったので、
(折角8ミリフィルムを使っているのに)しばらくボツという憂き目にあっていた。

10.氷の中の女
僕の音源の中でリヴァーブがこんだけかかっている曲も珍しい。
元々はチェルシーボロの為に書いたのだが、弾き語り以外にどうすることも出来なかったので、ソロ用とした。2001年作。EADEAEチューニングで2カポ。
歌詞でいつも気を遣っているのが、描写以外の部分で何が歌い手、聴き手に残っていくか、だ。
この曲の場合、死んだ女なんてどうでもいい事。
それと向き合ってる対象に刻まれ残されるであろう「何か」が重要。

11.今夜も暴走族の音
2002年作。俳句のような曲である。田舎で「暴走族」と言えば夏の季語なのだ。
これも「不良少女」と同じ路線かな。バカげているけど、ウェット。ただベタではない。
同郷の友人がこれを聴いて「あかん。たまらんわ~」と言っていて嬉しかった。
イントロでは暴走族のサイレンを模してみた。可愛いグロッケンの音だから全然迫力がない。

12.ネムノキ君
2001年作。最後の最後にものすごくヘタレな感じでバンド風バッキングがつく。
予測し得なかったことだが、この曲を書いた数年後、仲の良かった友達が亡くなってしまって、
それ以降この曲を歌う度にその友達のことを思い出してしまうようになった。
悲しくなるので、あまり歌いたくないのだが、時々は歌わねばならぬ。そういう曲。


ジャケットはここからしばらく友人である加藤くん(fromディレクションズ)に頼むことに。
顔ジャケは彼のアイディア。なんか僕のようで僕でないような、不思議な写真です。
この録音期に録音したけど、収録しなかった曲は「そっと必死にくいとめてらぁ」「焦燥感」
「宙イング・サヨナラ」「死に損なう君よ」「ハッピーバースデイ」「思いつめちゃいけない」。
行き場を見つけた曲もあれば、完全に葬られた曲もあり。復活する曲もあるやもしれない。



BGM:

2001年10月17日水曜日

『嘘つきデビル』(2001)

前作が地方の青春模様と都会との対比を描いていたとしたら、
このアルバムはその逆。都会の青春模様と田舎との対比。
基本トラックは秋葉原にあった福岡史朗さんの地下スタジオ、BOX&COXで録音した。
それを自宅に持ち帰り、あとはミックスまで全て自宅のハードディスクMTRで仕上げた。
予算があまり無かった、というのが最初の一因であるが、
制作しているうちに、デモテープに近いその手触りの方が内容に合っているような気がして、
自分の気持ちがすごく入っていった。
で、そうなったらもう後戻りは出来なかった。
同年に出したシングル「ネヴァ・ギヴァ」は当然収録されるもんだ、と誰もが思っただろうが、
結局音の質感が異なってしまったのでオミットすることにした。
とにかくミックスまで担当したということもあり、一番アルバム作りに没入したのがこの作品だ。
丁度コンプレッサーをどっさりかけるロック・サウンドに疑問を持っていた時期で、
自分なりにその対抗策を模索していた作品でもある。
それについては、あっさり敗北を認めるものであるが、
この温かく生々しい音は、社会と隔絶した耳で聴くととても心地良い…かもしれない。

1.ハイウェイの貴公子
知り合いのディレクターがスピード狂で、その乗ってる気分を僕が代弁してあげた。
しかし、当人には不評だった。
BOX&COXにあったメサ・ブギー(Gアンプ)がぐわんと良い音を出してくれた。
長時間使用すると音がへたる、と事前に聞かされていたので、いつへたるか冷や冷やしながら弾いていた。左右から聞こえるエレピが思いのほか情緒あり。1995年作。

2.看護婦のカーディガン
どうでもいいこと、この上ないことを歌うのが好きだ。今の時代「看護師のカーディガン」と歌わないといけないのかもしれないが、それは絶対にイヤだ。
マンドリンは土臭さを出さないように心掛けた。カウベルがとてもよく似合っている。1995年作。
実はチープなCGを使ったPVがあるのだけど、殆ど世には出ていないと思う。

3.なんだか迷惑だ
1994年作。女子に人気あり。ラブソング一歩手前のヘタレ歌で、ほぼ名曲。
坂田君のドラムがドライブ感たっぷり。僕がデモで打ち込んだリズムをいとも簡単に再現してくれるのにはいつも感心する。この録音の時も1テイクでOKだった。
珍しくバンジョーを弾いているが、これはスタジオに転がってたのを面白がって使ってみたのだ。
バンジョーを弾いたのは生まれてこの方、この日だけだ。

4.マイ・サンダー
アルバム制作終盤に大急ぎで録音した曲。これはすべて自宅録音。打ち込みの音が荒いぞ。
9.11のすぐ後のリリースだったので、この物騒な歌詞については随分と周りの人から言われた。しかし、当然これは9.11以前に完成していた曲だ。ライブでやるのは今でもお気に入り。
ギャラクシー500の「ブルー・サンダー」へのオマージュも入ってます。1999年作。

5.僕の胸につっかえているイヤなこと
今から考えると無茶をしているが、このアルバムのリズム録音に際してリハーサルをしなかった。いきなり録音。事前にデモテープとコード譜を渡しておけば、何とかなると思っていたのだ。
こういう複雑な曲は、ちゃんとリハをしていれば、もう少しスリリングになっていたかもしれない。
とても気に入っている曲だが、ライブではやったことがない。1996年作。

6.今夜君に会えるといい
ギターのチューニングはEADF#BE。3弦だけを半音下げている。
2001年作で、当時一番新しい曲だった。これも全て自宅録音。
途中から出てくる2本のディストーション・ギターは徳永憲史上、一番メタリック。
弾いてる時とても気持ち良かったのを記憶している。

7.たまらず恋をする
昔のバイト先の友人宅で飼われていたカメを見て閃き、彼の曲を書く。
いつ見ても逃げようとしているカメを、彼は「子供の頃から大事に飼っているんだ」と自慢してくれた。なんとも言えない寂寞とした歌だ。思い出すことが沢山ある。1995年作。

8.ファーストフード(火曜日にはもう飽きた)
表記は「ファストフード」の方が正しいのかもしれないが、どうにも馴染めないのだな。
1999年作。これも全て自宅録音。
アルバム・クレジットに「THE BIG SLEEP STUDIO」と記してあるが、要するにそれが当時の自宅。その頃レイモンド・チャンドラーと昼寝にハマっていたから、そういう名前をつけてみた。

9.オレンジ
元々は大学生の時に書いた野心的なメロディー。
歌詞をちゃんとつけて仕上げたのは1996年の時。
これも全部自宅で作業した曲で、その一連の曲の中では一番完成度が高いと思う。
甘いようでいて、とても苦い感触が残る歌詞だ。自分的には色んな挫折を織り込んだ。
気づいてくれなくてもいいけれど。

10.未来は来るだろう
ここで出てくる田舎の風景は『嘘つきデビル』の全体的な都会っぽさと対になっているもので、
自分の中ではひじょうに重要。コントラストがあればあるほどいい。
最後に転調するんだけど、80年代っぽくない所は自画自賛できる。
静動のダイナミズムが激しかったから、ミックスには苦労した。1996年作。

11.飛べないカモメ
これが一番古い曲で、1992年作。いかにも大学生のボンクラが作りそうな甘えた歌で、
そういう所が気に入っている。短いけど、ちゃんとエモーションを湛えた歌になっているかな。

アルバム・タイトルは最後の最後に命名した。
アートワークはブライト・アイズのジャケも手がけていた山本さん、
そしてSpangle Call Lilli lineの笹原さんの写真、
どれもこれもうまくハマった。トレイ下に写っている自分は病弱そうで激ヤセだが、
まぁ、そういう時期だった、ということだ。
詮索は無用で。


当時書いていた日記→こちら

2000年12月31日日曜日

探偵さわぎ

僕が東京にはじめて出て来た時、住んでいた部屋。
その階下にちょっとした変人が住んでいた。
一日中大音量でラジオを聞いているくせに僕が物音を立てるとヒステリーを起こし天井をドンドンと棒で突き上げた。
お前の方がうるせーよ、と僕はしょっちゅうツッこんでいたものだ。
他にも色々とあって僕はその変人にはかなり不快な印象を持っていたのだが、
奴の部屋は玄関の前を通ると少し匂い、カーテンは一年中閉まっていて、窓には大きな亀裂が入っているぐらいだったのであんまり係わり合いにはならない方が得策だと思い、なるべく気にしないようにしていた。

ある休日のこと。
変人部屋にピンポーンとインターフォンが鳴り、訪れる人がいるような物音が聞こえた。
僕は珍しいこともあるもんだな、と思い窓を開け、上からその様子を伺ってみることにした。その変人は状況証拠から察するに無職であることは間違いなく、その頃には僕は一体こいつはどういう生活をしているのだろう…と興味を抱くようになっていた。
訪れた人はどうやら電気量販店の従業員らしかった。
何かの電化製品の設置に来た、と言っている。
変人はドアを開けて、招き入れているようだ。
会話が少しあるようだが、上からでは聞き取れない。
だけどゴチャゴチャと何か業者の人がせわしなく動いている様子は伝わってきた。
僕は階下が気になって仕方なくなった。
上から覗くといつも閉まっている筈の玄関のドアが開け放たれている。
そんな事は見たことがない。
いつもうすら寒くジットリと閉まっているだけのドアだ。
業者の声が聞こえてきた。
困ったトーンがする。
「あのぉ、この辺を片付けてもらえませんか?」
僕は色めき立った。
何かある!
電気量販店の人間がそんな風に訴えることなど極めて稀なことだ。
僕は我慢できなくなった。
見てみたい。下を。
僕はまだその変人野郎の実物をこの目で見たことが無かったし、当然その部屋の内部も見たことがなかった。僕は出かけるフリをして階段を降り変人部屋の内部を見てやろう、と決心した。
やるとなれば急がなくてはならない。
いつ業者が逃げ出すか分からない。
ドアもいつまでも開きっ放しではないだろう。
僕は急いでスニーカーを履き、下に気付かれないようにドキドキしながらソーッとドアを開け、あっという間にスタタタと軽快に階段を降りていった。

目に入ったのは先ず玄関に50センチくらいの層になっているゴミの山で、
ハッと気付くとそれは部屋の奥からせり出てきたものだった。
そして、瞬間的に古新聞を敷き詰めた鳥カゴのような匂いがムッと鼻をついた。
壁がひどく黄ばんでいた。
元々自分の部屋と同じものだった部屋がどうしたらこんな惨状になるのか…。
僕は予想以上の結果にショックを受けてしまった。
自分の部屋の下にずっとこんな世界がまとわりついていたなんて。
残念ながらその時人影は捉えられなかった。
変人と電気業者はゴミ溜め部屋の奥のほうにいたみたいだ。
僕は心を静めるためにそのまま外に出て、近所をしばらく散歩することにした。
しかし、心を静めているうちにあの異常さが怖くなって、今度はあの部屋の前を通って自分の部屋に帰るのが億劫になってしまった。
これはかなりの誤算だった。
知らなければ良かったのかもしれない。
1千万人以上が暮らしているここ東京には知らなくてもいいことが沢山あるのだった。
ま、1時間後ちゃんと帰ったんだけどね。
その時はもう変人ゴミ溜め部屋はいつもの様子に戻っていた。
ふぅ、である。

その深夜。
だんだん腹が立ってきた。
ずっと奴のインパクトのせいで僕はその日、奴の事を考えてしまっていた。
奴のおかげで僕の休日は台無しになったわけだ。
その休日に僕は他にやるべきことが一杯あった筈だし、
もっとリラックスして過ごせる筈だった。
それが、ばってん思いがけない精神的ストレスを蒙ってしまったのだ。
悶々と考えていると、ガチャと下の変人部屋のドアが開いた。
奴はいつも深夜になると10分ほど出掛ける習慣があった。
僕はそれを「変人のコンビニ旅行」と呼んでいた。
すると、鬱屈したストレスが僕にまた変な好奇心を起こさせた。
こうなったら今日は徹底的に奴に振り回されてやろうじゃないか。
僕はそう思うと、すばやく身支度をして玄関を飛び出した。
路上に出る。
すると50メートルほど先にぽつりとコンビニの方に歩いてゆく人影があった。
奴だ。
僕は探偵になりきることにした。
尾行でもしちゃろう。
競歩のように歩を進め、僕は奴との距離をだんだんと詰めて行く。
いくら近づいてもいいのだ。
追い抜いたとしても向こうは僕が上の階の住人だと知る由もない。
僕が10メートルほど近くに来た時、奴は案の定コンビニの明かりに吸い込まれた。
いよいよ顔を見る時だ。
その時がやって来たのだ。
僕は何でも無い顔をして、変人野郎に続いてコンビニに入った。
奴は早速立ち読みを始めている。
後ろからその姿を見た。

それはただのオッサンであった。

むさっくるしいメガネに突き出た唇、中肉中背でひよこっぽい髪型。
どこにでもいる普通の身なりのトータル・バランスの悪い、汚いオッサンだ。
見てしまうと実にあっけないものだった。
拍子抜けしてしまった。
こんな平凡な人だったのか。
コンビニを一回りして僕は帰った。
世の中には変人がいっぱいいる。
しかし、その殆どが平凡な人間なのだ。
僕の探偵さわぎはあっという間に熱を失い、終わった。


(2000年頃の文章を転載)

2000年10月4日水曜日

『眠りこんだ冬』(2000)

このアルバムから完全セルフ・プロデュース状態に入る。
というわけで、以前からやりたかったパワーポップ路線へと突入。
似合わないと言われて封印していたブルース・ハープやボトルネックも演奏するわ、
勢い任せに叫んでいる曲もあるし、かなり羽根を伸ばした状態。
今冷静に聴けばヴォーカルに力が入り過ぎの曲もあるが、
そういうモードだからこその青春っぽさ全開という気もする。
そう、これは青春をコンセプトに作られた作品だった。
曲調はいくらか若く、90年代前半に作られた楽曲が多い。
もうすぐ20代も終わるというこの時期に、今作らないとタイミングを逸する、
とはっきりと意識していた。
ギリギリのところで若さを爆発させたアルバム、といったところか。

1.フレンド(オア・ダイ)
1994年作。飲み会という理由だけで騒げなかったのは、若くてプライドがあったからだ。
30代を越えたら飲み会という理由だけでウキウキしてしまうよ。
昔は親睦会って言葉が大嫌いだった。そのいらだちが歌になった。熱い。
他の曲もそうだが、リズム録音は主に代々木ワンダーステーション。

2.気にしないで
1991年作。こういうナーバスな曲はもう書けない。まだ大学生だった。
寺谷さんはピチカートでも叩いてた激ウマなドラマー。スマートで洒脱。仕事人だった。
ピアノ・ソロは昔のデモテープそのままを鶴来さんに弾いてもらった。
PVは練馬の光が丘公園にて撮影。最初病院のベッドに乗りながら歌いたい、と言ったら
コロコロ付きの丸イスで妥協してくれ、と言われた。
因みにシングル・ジャケの案は僕が出したもの。
デザイナーの木村さんがそれをポップに仕立ててくれた。

3.ラブソング・ナンバー1
1993年作。東京に来た頃の気分がかなり投影されている。独りでもがいている人の為の歌。
タイトルはおちゃらけ、というよりは挑発。
ホーン・セクションはスリルの方々。はじめはもっと派手なアレンジだったのだが、
僕には豪華過ぎるように感じたので、とことん地味にしてもらった。申し訳なかった。

4.読書のポーズ
1995年作。これも青春の1ページ。
本は好きだけど、本を読む自分が好きって考え方もあるよな。
ドラム・パターンはキンクスを参考にした。寺谷さんは本当にタイトだ。
録音したスタジオは麻布だったんだけど、この頃サルが出没していた。(どうでもいい)

5.工業都市のため息
1996年作。ボブ・ディランの「おもいぞパンのビン」の一節「マンガ本と僕、僕らだけでバスに乗る」からインスパイアされて書いた。
何故だかレコーディングのことは(ギロを使った時以外)憶えていない。
だけど、出来としてはいいんじゃないだろうか。アルペジオが工芸品みたいだ。

6.トンネル
中学生の頃からオリジナルは作っていたんだけど、初めて本格的に日本語で書くようになったのが20才の時。この曲はその第一歩。というのは前にも書いたな。
若書きのようでいて、今でも歌える普遍性もあるような。
不思議だ。
等さんのウッドベースと、鶴来さんのピアノが柔和で美しい。1991年作。

7.80年代
1994年作…とは言えメロディー自体は高校生の時に作った。
それを引っ張り出してきて日本語を乗せたら、こういう歌詞になったと。
しかし、内容は90年代でも00年代でも適用できるんじゃないかな。
ガット・ギターを弾いているのはかなり珍しい。甘い音色が曲調に合っていると思う。

8.眠りこんだ冬
雪原を走るJR電車に乗った自分をただ描写しただけの曲。
アルバム・タイトルにもなって、当然ジャケットの世界ともリンクしている。
アウトロを途中でフェイド・アウトするかどうか、で非常に悩んだ。
でも、ベースの吉川君がこのアウトロを絶賛していたので残した。確かにこれは痺れる。
左右のダブル・ドラムを提案したのは坂田君。1996年作。

9.ひっこみじあん
1994年作。若さが持つ強さってのは経験の浅さに裏打ちされたものだ。
そして、若さが持つもろさってのも経験の浅さに裏打ちされたものだ。そういうラブソング。
凝ったコーラス・ワークは昔のデモテープを再現した。
そういった上モノの録音は、主に四谷天窓と同じビルに入っていたスタジオで作業することが多かった。

10.雨が降り続いた
1996年作。ギター・ソロは僕が最初に自宅で録ったデモのテイクを採用。サンプリングした。
二度と同じようなソロを弾けなさそうだったので。
全体の音の質感はまさしくエンジニア土井さんの世界。どっしりしている。
「リンゴン リンゴン」とは鐘の音。そして、次曲にも鐘が打たれる。

11.オカエリ・ファンファーレ
1994年。元々のタイトルは「オカ・エリロ・ボコン」。
作った当時、渋谷系が流行っていて、それを(誰にも知られぬよう)揶揄している。
オシャレさんが間違ってフランス語風に発音したら最高だ、とニヤニヤしていた。
で、中黒の位置がおかしいにせよ、念の為スタッフが東映に確認を取ってみたら、
歌詞で歌われる分にはいいけど、タイトルには勘弁、という返事だった。
というわけでファンファーレになった。
ヴォーカル録りの日は発熱していた。しかし、締め切りが迫っていたので強行。
PVは等々力の多摩川周辺で撮影した。最後に土手でワーゲンを運転した感触は良かったよ。

12.飛び出しナイフ
1992年作。歌詞は色々と書き直して、最後はパズル状態。数行しかないのに。
そして短い曲なのに、地味に何度も転調している。変だ。

13.マテリアル・イシュー
自宅のガレージでガス自殺をしたマテリアル・イシューのリーダー、ジム・エリスンに捧げた。
ダイアンとかヴァレリーとか、女の子の名前の曲が多かった人だった。1996年作。
ちなみに「気にしないで」のカップリングにした「不時着ヴァージョン」はリズム録りした時のヴォーカルをそのまま使ったもの。ヘロヘロでかっこいい。

ジャケットは越後湯沢の近くの町で撮影したもの。
(川端康成好きとしては、雪国と言えばここしかない)
自分にはアルバムを録音する前からコンセプトが見えていたので、
スタッフにお願いして、かなり前倒しで撮影に行ったのでした。



BGM: