2010年8月30日月曜日

孤独な闘い

大昔のこと…僕がまだ地元・滋賀で中学生をやっていた頃、
5つくらい上の先輩(同じ学区だと思われる)が突然モヒカン頭になった。
皮ジャンに細いブラック・ジーンズ、そそり立ったモヒカン、
という出で立ちで颯爽とチャリをこいでいる姿を僕はある日突然目にし、ぎょっとしたのだ。
何だ?今のは…?。
あっけにとられた。心臓がドキドキした。
その先輩のことはよく知らなかった。
でも、顔はどこかで見たような覚えがあった。
恐らく僕が小学校に入った頃、モヒカン先輩は高学年にいたのだろう。
でも、あやふやな記憶の上での話だ。はっきりとはしない。
しかし、とにかくその顔は前にどこかで見かけた顔だっただけに、
僕は余計に衝撃を受けたのだった。
知ってる人があんなになってる。
いわゆるそれが極道パンクの生きる道だということも知っていた。
当時読んでいたミーハー洋楽雑誌ミュージック・ライフでも一応は(日本発売されてるなら)そういうハードコア・パンクも載っていた。
もう白黒ページのほんの隅っこの方にだけだったが。
でも、それはそれは強烈で、異彩を放っていたもんだった。
この全体に黒くてよく見えない写真は何?、アナーキーって何?、ポジパンって何?
中学生の僕にはとても危険な匂いがして、そのページの一角へはとても足を踏み入れられなかった。

今ならモヒカンも一般的認知があるだろう。
普通の人気バンドにもモヒカン頭はいるし、
ベッカムが流行させた新種ソフト・モヒカンみたいにちょっとした浮ついた気分で仲間入りすることだって出来る。
でも、当時のモヒカン頭というのは相当覚悟を決めないとできない髪型だった。
どこか遠い外国で起こっている話ではなく、
現実にその異端な髪型をして町中を歩かないといけないのだ。
勇気だってかなりいるだろう。
自分という存在すべてをパンクに捧げる決心がないと出来なかっただろう。
それに、敢えてもう一度書くが、これは大都市での話でもない。
滋賀県の片田舎での話だ。
誰も注目していないそんな場所で、その頭で生きていかなきゃならんのだ。
・・・。
今にして思うことは、モヒカン先輩はずいぶん孤独な闘いをしていたんだなぁ、ということ。
21世紀のポップ・パンクをやる上で(ファッションのひとつとして)モヒカン頭を選択するのとでは次元が違う。
まぁ勿論、現代のモヒカンさん達もどこかで闘ってはいるのだろうが、これだけは言える。
彼らは今、そんなに孤独ではない。
そう、モヒカン先輩は本当に孤独だったのだ。
僕の田舎には、他にあんな頭をした人は誰一人としていなかった。
孤独だったからこそ、モヒカン先輩はとても気合いが入っていたし、本物のパンクだった、と僕は今思うのだ。

そんなモヒカン先輩に僕はある日、急接近したことがあった。
小泉町の田中書店へ立ち読みに行ったら、
モヒカン先輩が一人でマンガを立ち読みしていたのであった。
その時は「やべぇ人に遭遇した!」と思って、そそくさと退散したのだが、
ちらっと見えた先輩の横顔は案外素朴だったことが印象に残っている。
そして、何だか淋しそうだった。
平日の昼間っからママチャリを漕ぎ本屋に立ち読みに来るぐらいだから、
あんまり良い人生ではなさそう…ということ以上に彼のパンク極道と比較して、
その行動が実にアンバランスで、何とも言えない寂寞感が漂っていたのであった。
モヒカン先輩だって「キャプテン翼」を読みたかったんだ。
僕は家に帰りながら、そう思った。
しかし、そんな冴えない立ち読み時でも先輩はきっちりモヒカンを立てていた。
言いかえれば、そんな時でもモヒカン先輩は闘っていたのだろう。
パンクスとしての矜持をモヒカン先輩は立ち読みの時だって、捨てていなかったのである。
あの姿は本当にものすごく孤独な感じがした。
時々僕は不意にモヒカン先輩のことを思い出すことがある。
あれから何年経ったのだ!
随分昔のことのように思える。
モヒカン先輩はただのオッサンになってしまったのであろうか。
それとも、まだ滋賀県のどこかで埋もれながらも闘っているのだろうか。
僕もひとつ頑張るとしよう。
最終的に僕はいつもそう思うのだった。


(2000年頃の文章を転載)

2010年8月27日金曜日

ミニFM局

またまた中学生の頃の話。
前回にも登場した友人D君と僕は、ミニFM局というものをやっていた。
今で言うとPodcastやUstreamみたいな存在だろう。
トランスミッターというFM周波数を出す機械で、
自分達で作った番組を半径50メートルに向けて放送するのだ。
半径50メートル。
そう、たったそれだけの規模である。
しかし、実際に携帯ラジオを持って近所を歩き回ってみると、
ちゃんと自分達の声や選曲が聞けたのである。
これには思わずほくそえんだ。
FM周波数はたしか75.0だった。
全世界とつながってるネットもいいが、ミニFMもなかなかのものだった。
そして、これが80年代前半にちょっとだけ流行っていたそうである。

僕は全然詳しくなかったのだが、FM文化に憧れていたD君がそういうことに熱心だった。
当時は専門の雑誌が何誌もあるぐらい、FMは最先端で人気のメディアだったのだ。
ついでに言うと、D君は小林克也にも憧れていた。
ミニFMだったら、自分もすぐにDJになれるのである。
そんな彼が僕を勧誘した。
親がラジオ局に勤めていて、しかも家にレコードが沢山あって、
オープンリールとかミキサーとか特殊な機材も準備できる、
そんな僕を誘うのは当然の成り行きだった。
僕はすぐに乗り気になった。
そして、ミニFM局を開局することがあっさり決まった。
その話を父親に話したら、翌週にはもうトランスミッターが家にあった。
D君はその展開の早さに手をたたいて喜んだ。
うちの父親は新しいモノ好きで、
息子がラジオの真似事をすると聞いたからには辛抱ならなかったのだろう。
すぐに資料を取り寄せ、注文してしまった。
僕も自分の息子がギターを買いたいと言ってきたら、
すぐに買ってしまうかもしれない。
まぁ、そういうもんだろう。

「Yellow Kong Station」 これが僕らの番組名だった。
何とも絶妙に80年代っぽい「微妙な」ネーミングで恥ずかしい。
さすが中学生。
考えたのは確かD君で、僕はロゴとイラストを考えた。
そしてピアノでジングルまで作った。
「楽しそうなことしてるやん」と友人K君も仲間に加わった。
僕らは学校の10分間の休み時間にもわざわざ集まって、
番組についての会議をひらいた。
そんな甲斐もあり、放送は第一回目からうまくいった。
そう記憶している。
楽しかったのは楽しかった。
しかし、その一方で虚しさもあった。
そう。半径50メートル問題だ。
友達にこう言うことも考えた。
「明日、夕方4時頃、うちの近くにまで来てラジオを聴いてくれ」と。
しかし、それだったら普通に家に遊びに来ればいい話だった。
D君と話し合った結果、結局は番組をカセットに録音することにした。
そして、それを友達のあいだで回していくのだ。
もはやFMでも何でもなかったが、しょうがない。
聞いてもらってナンボだ。作るからには友達にも聞いてもらいたかった。

というわけで「Yellow Kong Station」のカセットは学校で出回ったわけだが、
これがなかなか好評を得た。
D君はもともと学校で人気者だったし、中学生が自分達で番組を持っていて、
好き勝手なことを喋っている、ということ自体が画期的で、かなり面白がられた。
次の番組のテープを早く貸してくれ、という声があちこちから起こった。
僕らはその声にテンションが上がり、暇な週末を見つけては番組を作っていったのだ。
ネタには事欠かなかった。
みんな音楽好きだったし、それぞれが好きな曲を持ち寄ってはそれを紹介していった。

残念なことに今現在、僕の手元にあの当時作っていた番組のカセットは残っていない。
つまり、誰かから誰かへと渡っていったカセットは僕の所には戻ってこなかったことになる。
アバウトだったから、特に貸し出しの台帳とかも作っていなかった。
まぁ、しかし、それを自分が今聞き返せないことは幸せなのかもしれない。
聞いたら絶対に赤面ものだろうから。
この歳になって赤面はイヤだ。


BGM:Surf's Up / The Beach Boys

2010年8月19日木曜日

林間学校

音楽を意識的に聴くようになったのは小学校6年生くらいであっただろうか。
両親がラジオ局で働いていた事もあり、僕のうちは音楽がいつも身近なところにあった。
レコードの扱いを教えてもらってからは、ちょっと背伸びした気分でそれを楽しんだ。
傷をつけないよう大事に大事にシングル盤をターンテーブルの上に乗せ、
針を落とし、出てくる音に耳を傾けていたものだ。
聞いていたのは当時の歌謡曲のシングル盤。
でも、それだけじゃ物足りなかった。
洋楽ロック一辺倒になるのは、中学2年生以降になる。
そこから僕の本格的な音楽生活が始まった。
時代は完全に80年代旋風が吹いていて、僕もその大波に飲み込まれた形。
クラスの友達の多くに影響されながら色んなものを聴いていった。
レンタルレコード屋にもよく通った。
家が近所だった友人D君とは、日曜日、二人で約束して午前中からレンタルレコード屋へ行き、
当日料金(50円引きになる)でLPを3~5枚ほど借り、
真っ直ぐ自宅へ帰りそれをカセットに録音した後、昼過ぎにまた二人で待ち合わせ、
お互いに借りたレコードを交換してさらにそれを録音…ということをやっていた。
夜に返しに行く時はヘロヘロになっていたもんだ。
それだけ貪欲に新しい音を追いかけていたのだ。
しかし、それだけでは話は済まぬ。
また別の友達からはカセットを貸りて、それをさらにダブルデッキでダビングしたり。
ダビングのダビングだと音がモコモコしてたよな。

そんな頃、中学2年の秋。
林間学校っぽい泊りがけのバス遠足があった。

希望が丘の青年の城。 当然その宿泊の夜は、友達同士でロック談義となる。
友人M君は規則違反のウォークマンを持ってきており、
それがさらに皆のテンションを上げさせた。
大部屋に並んだ二段ベッドの上、順番でそれを聴くことになった。
先生の見回りがあってヤバいのだが、そのワクワク感はハンパじゃなかった。
しかも、M君が持ってきていたカセットが驚異のメタル・バンド、WASPだったのだ。
股間にノコギリを立てて放送禁止曲を歌う、という噂の新人だ。
まだそれを聴いたことがなかった僕としては、これは是が非でも聴いておかねば、という気持ちになった。
ジャージ姿の中学2年生たち。可愛いものである。
僕の順番が回ってきた。
僕は二段ベッドに登り、おそるおそるウォークマンのプレイボタンを押した。
すると出てきたのがド派手なメタル・サウンド。
そして凶暴で邪悪なダミ声ヴォーカル。
僕は度肝を抜かれた。
でも、ビックリするほどサビのメロディーがキャッチーで…と思っていた瞬間、
誰かが小声で囁いた。
「先生が来たぞ!」
その場に戦慄が走った。
緊迫した空気になり、皆が皆取り繕うような素振りを見せ、あたりがシーンとなった。
まだ就寝時間でもなかったので適当に雑談していればいいものを、
シーンとなってしまったことで「何か悪いこと」をしているのがバレバレだった。
僕はとっさに、これはカセットを止めなければ現行犯になる!と思い、
ガチャガチャとストップボタンを探してカセットを止め、枕の下にウォークマンをササッと隠した。
ジャージの下で心臓がドキドキと打っていた。
が、先生の見回り情報はガセだった。
実際は大部屋の前を通りがかっただけであった。
僕らはほっと胸を撫で下ろした。
でも、ロック談義はそこでお開きとなった。
僕もこれ以上ヤバい橋は渡れない、と思った。

後日、僕はM君から改めてWASPのカセットを借りた。
やっぱり気になっていたし、「先生が来た!」というあのガセネタが出た瞬間以降の曲も、
ちゃんと聴いておきたかった。
かくして、今度は自宅でゆったりした気分で聴けた。
1曲目。例のキャッチーなサビの部分。
しかし、ここで急にM君のカセットから「チュルチュルチュル」という音がした。
おやっと思った…が、原因はすぐに分かった。
原因はあの夜の僕だった。
きっとストップボタンを押さないといけないところを、
焦って録音ボタンと巻き戻しボタンを同時に押してしまったのであろう。
ほんの0.3秒ぐらいだが、テープが巻き戻る音が録音されてしまっていたのだ。
「チュルチュルチュル」
ヒップホップのスクラッチ音じゃあるまいし、サビが台無しになっていた。
翌日、僕はM君に謝った。
M君は大目に見てくれた。
あの状況だったから、逆にそれは笑い話になったぐらいだった。
で、僕はと言えば、ちゃっかりその「チュルチュル版WASP」をダビングさせてもらっていた。
その後も何度か聴いたのだが、その度にあの「チュルチュル」が耳に入った。
そして、その度に楽しかった林間学校の夜を思い出したのである。

(つづく)

2010年8月11日水曜日

うちの金魚

うちで金魚を3匹飼っている。
いたって普通の和金という種類の金魚たちだ。
そのうちの1匹の様子が今年の春頃からおかしくなった。
それまでは他の2匹同様、活発に動いていたのだが、
すっかり大人しくなって水槽の下の方で静かに佇むようになったのだ。
最初は寝ているか、リラックスしているだけなんだ、と思っていた。
しかし、ある日まじまじとその1匹を観察していた時に分かった。
よく見ると、眼が淀み、黒目が半透明になっている。
失明していたのだ。
他の2匹の黒目は漆黒の濃さなのに、
その1匹の眼は頭部の中が透き通って見えるほどに薄い黒目になっていた。
水槽をコツコツと指で叩くと、反応して普通に泳ぎ出すので、
重大な病気ではなさそう。
しかし、泳いでいると他の2匹にぶつかるし、ポンプの管にも真正面から激突してしまう。
だから、彼は水槽の下で静かに佇んでいたのだ。
自分の身を守るために、じっとしていたのだ。

それに気付いてから僕は、その失明金魚のことが気にかかってしょうがなくなった。
金魚は自分の身に起こった事態に気付いた時、絶望したであろうか。
そもそも何にも楽しくない水槽の中だ。
自分は何の為に生きているのだろうか、などと自問はしていないだろうか。
それともオツムが弱いので、失明した事自体、今でもわけが解っていないのであろうか。
とても可哀相だった。
しかし、唯一の救いは失明金魚が頑張って生きようとしている事だった。
エサをやると、水面付近にまで浮き上がってきて一生懸命エサにありつこうとする。
他の金魚2匹がエサに食らいつく音や水の波動に気付いて、
自分も水面付近で口をパクパクさせにやって来るのだ。
生き続ける為に、彼は本能のままにそう行動するのだ。
しかし、目が見えないからうまく食べられない。
エサのない方向で口をパクパクやっていることもしばしば。
運が良ければ、そのうち1~2粒口の中に吸い込まれるかもしれない。
彼はそれだけを頼りに生きているのだ。
僕がその病気に気付いてやれなかった頃は1粒も食べられなかった日もあっただろう。
何とおそろしかったことか。
目前に死を感じていたかもしれない。
想像するだけで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

今、僕は3匹いる金魚の中で失明金魚を一番かわいがっている。
なので、毎日えこ贔屓をしている。
エサやりの時、先ずは最初、数粒だけ水槽にエサを落とす。
すると他の2匹が物凄い勢いでエサの争奪戦を始める。
バチャバチャという貪欲な波しぶきをたてて。
その音を聞かせて、僕は失明金魚にエサの時間を教えてあげる。
あとは彼が口をパクパクさせる方向にだけエサを落としていく。
勿論、他の2匹に邪魔されたり横取りされることの方が多いが、
ちゃんと食べられる確率はかなり高くなっていると思う。

嬉しいことに、最近の失明金魚は水槽の下でじっと佇むことが少なくなった。
目が見えないことに変わりはない。
しかし、恐怖心が少しはやわらいだのであろう。
というか、その生活に慣れただけかもしれない。
とにかく以前より少し活発になった失明金魚を見ていると、
僕はとても嬉しい気持ちになるのである。


BGM:Four Altos / Woods,Quill,Shihab,Stein

2010年8月4日水曜日

ギターを始める

僕がギターを初めて買ったのは高校一年生の時。
メーカーのカタログを目を皿のようにして読み、雑誌の広告を飽きるほど眺めた後、
京都へ出て、四条の楽器屋でドキドキしながらレスポールを買ったのだ。
その日の事は今でも鮮明に憶えている。
しかし、そこへ行き着くまでには長い道のりがあった。
別に道路事情の話ではなく、買うまでに至った僕の中での道のりのことである。

そもそもギターを弾きたいと思ったきっかけは中学の文化祭で友達のバンドを観たこと。
当時は空前のバンドブームが到来する数年前。
友達のバンドはめちゃくちゃ輝いて見え、それは到底普通の光景ではなく、
とびきり特別なことのように思えた。
僕は衝撃を受けたのだ。
それまでに曲を作り始めていた僕は「やっぱギターを弾かな始まらん」と思った。
その時までは家のピアノを使っていたが、まったく理想の世界へと近づいていなかった。
(注:小学校の時にピアノを習っていたのです)

しかし、それで次の日エレキを買いに走る、といったお決まりのストーリーにはならない。
僕の場合。
自信がなかったので、まず僕は友達O君からアコギを借りた。
練習を始めて、向いていないことをギターを買った後で知るのはイヤだった。
それで、買う前に少しは弾けるようにしておこうと考えた。
自分で言うのも何だが、自分は全く信用ならないヤツだったので、
まずはそのヤル気に疑いをかけたのは当然の成り行きだった。

しかし、実は友達にギターを借りよう、と決心するまでにもストーリーはあった。
友達にギターを借りて、全く上達しないまま返却するときっと恥ずかしいに違いないので、
借りる前にちょっと練習しておこうと思って、
木とダンボールで原寸大のギター模型を作ってみたのだ。
で、それを抱いてみて、ステレオで曲をかけながら、エアギターのように手を振り、
それがどんな感覚のものなのか、自分自身で確かめたかったのだ。
空手の「形」は基本中の基本だが、僕もギターの基本中の基本を身につけたかった。

ネックは近所の材木置き場に落ちていた木片だ。
ボディはダンボールをカッターで切り取って、それを4枚重ねにして作った。
はじめファイアーバードの形にしたかったのだが、あの絶妙なラインをどうしても下絵に書けなくて、仕方なくフライングVにした。
作っていると、いつしか隣から頭をねじ込むようにして見ていた弟・純(まだ小学生)が、
自分にも弾かせろと主張してきた。
僕は「あかん。子供が触るようなもんじゃない」と叱ったものである。
そして、色を塗った。
ラジコンの塗装用に持っていた銀色のラッカーを塗りたくり、
あとはスイッチやらツマミ、フレットをマジックペンで書き入れ、完成させたのだ。
弟・純はあまりのカッコ良さにビビっていた。
今だったらレニー・クラヴィッツが売ってくれ、と懇願しそうなピカピカの銀色のフライングVだった。

しばらくはそれを弾いていた。
いや、音は出なかったけど、カシャカシャと手とダンボールが擦れる音はしていた。
弾いていると、右手小指の下あたりが銀色になった。
その汚れを見て僕は、今日もよく弾いたなと思ったもんだ(勉強をしろ)。
今現在、僕は弾きたいようにギターを弾けるようになって、
曲を作るのにもギターを大いに役立たせている。
あの頃の事前練習のおかげだと思っている。
本当に。
先日レコーディングで気合が入って何時間もギターを弾いた後、
気が付いたら、弦と擦れてたせいで右手小指の下が黒ずんで汚れていた。
それを見て僕は中学生の頃の「銀色の右手」を思い出したのである。


BGM:Sandinista! / The Clash