その昔、僕はスリリングな床屋に通っていた。
高校生の頃だ。
カミソリ使いが下手な床屋、親父がモーロクしている床屋、もみあげはテクノにしますか?
といまだに訊いてくる床屋など、危険な匂いを放つ床屋は色々とあるだろうが、
そこだけは特別だった。
何とそこの床屋の主人は、人を殺したことがあったのだ。
昔殺人を犯して、今は刑期を終えた主人が髪を切ってくれるのだ。
カミソリで顔も剃ってくれる。
僕がその噂を聞いたのは、そこに通い出してからしばらく経った後だった。
何も知らないで僕はその床屋に「ちょっと安いから」という理由だけで何ヶ月も通っていたのだ。
散髪の腕の方は特に問題なかった。
ただその主人は的場浩二似の無口な中年男性で、得も知れぬ迫力があったのは確かだった。
通い出した頃から僕は目付きがマジでちょっと怖い感じだな、
と思っていたのは確かだったのだ。
時々シェパードやシベリアン・ハスキーと不意に目が合って、その攻撃態勢のマジ加減に怯むことがあるけれど、それに近い。
散髪の仕上がりに文句を言おうものなら、一喝されそうな眼力があった。
僕は「噂は噂だろう」と思おうとしたものの、その情報筋はかなり信頼できるもので、
どうやらそれは間違いなく事実だった。
僕は主人のあの迫力と“元殺人犯”という影の肩書きを重ね合わせて、
戦々恐々としてしまったのだ。
問題はそこから先だ。
そろそろ髪が伸びてきて、散髪しなきゃならんな、と思った頃。
僕は選択を迫られた。
いつものようにその床屋へ行くか、それとも別の床屋を開拓するか。
いつものように行く、とは言っても僕はもう伏せられた事実を知ってしまっていた。
意識せざるを得ない。
人を殺した人にこの身を無防備に預けなくてはならない。
無論、いきなり理由もなく殺されたりするわけはないのであるが、
どう考えてもやっぱり怖い。
相手はハサミ、カミソリをその手に握っているのだ。
もしかしたらドライヤーであぶり殺されるかもしれない。
じゃあ、やめればいいじゃん、と思われるかもしれないが、
そういうわけにもいかなかったのである。
僕は堂々巡りの考えをするうちに、別の床屋へ行く事がその主人に発覚したらヤバイ、
と恐れてしまったのだ。
常連だったのに他の床屋に乗りかえたとバレた時、
殺意が芽生えるかも…と考えてしまったのだ。
僕は悩んだ。
十代の頃、特に悩んだ経験はないものの、この時ばかりは悩んだ。
先生にも相談できなかった。
これはもう究極の選択である。
で…、結局どうしたか。
そう、僕はその殺人床屋へ、意を決して行ったのであった。
あの主人に殺意を抱かせない道を選び、ボサボサの髪を乗っけて行ったのだ。
客は僕一人だった。
店には元ヤンキーといった風采の奥さんらしき女性と、
例の主人が不機嫌そうに待ち構えていた。
入った瞬間に僕はもう後悔してしまった。
殺される。
何故かそう思ってしまった。
そう思ってからは地獄だった。
今まで感じたことのない緊張感が全身に走り、それが店じゅうに伝わっているような気がした。
僕はその緊張感をごまかそうと、何とか平静を装うとした。
主人は「今日はどうされます?」と訊いてきた。
僕は「任せます」と答えた。
これがまずかった。
元殺人犯は「任せます」がお気に召さないのだった。
一瞬、間(ま)が空いた。
僕は殺気を感じた。
もうダメだ!
死ぬ!
すると、奥さんが絶妙のタイミングで助け船を入れてくれた。
「いつもと一緒でいいですよね」
「ハ、ハイ!」
彼女は命の恩人だ。
今、僕が音楽活動をできるのも全て彼女のおかげだと言ってもいい。
ともかく、その日の散髪は終わった。
僕の髪型は妙にぴっちりしていた。
模範高校生のようであった。
全然ロックじゃなかった。
パンクなんて海の向こうの話だった。
でも、全然よかった。
次の日、学校で「ぴっちりしてるやん」と友達にからかわれたが、
もう僕はどうでも良かった。
生きてあそこから帰れただけで幸せ、
とその“ぴっちり髪型”を愛しく思ったぐらいだった。
スリリングな床屋。
その床屋は数年後、いつのまにか無くなっていた。
僕はその後もしばらく通ってはいたが、大学生になってからは行かなくなった。
僕は店をたたんだ理由を考えてみた。
元殺人犯、という世間の風評に負けたのだろうか。
案外、主人が体でも壊してしまったのだろうか。
奥さんと別れてしまったのであろうか。
それとも、客に逆上して殺してしまったのであろうか。
(2000年頃の文章を転載)