■2010/5/27(木)
<HIGH BRIDGE GOES TO YOUR HOMES “ウチブリ Vol.53”>
渋谷HOME
出演:徳永 憲、無頼庵、カランツバターサブレ
7ヶ月ぶりのライブ。 エレキ弾き語り。チェルシーボロの曲もやった。
「ひっこみじあん」はいつ以来になるだろうか?
SET LIST
1.コーラの秘密
2.クスクス
3.マイ・サンダー
4.陽気なバラ
5.おあいにくさま
6.今夜も暴走族の音
7.ハイウェイの貴公子
8.ひっこみじあん
9.S(スピード)
10.チェルシーマウス
■2009/10/12(月・祝)
<Tokyo Pop Festival>
飯田橋 東京日仏学院
出演:ELEKIBASS、HARCO、ALOHA、acari、onnacodomo
原田茶飯事BAND、渡辺シュンスケ、PetBottles、2 from FullSwing
advantage Lucy、Ra’con、クノシンジ、小田晃生、ソフテロ、世武裕子
徳永憲
DJ:渚十吾、長坂雅司
日仏学院はフランス政府の公式機関で、日本の中のフランス。
そこでお昼から夜まで行われるミニ・フェスティバルに出演。
僕は映画館にてウッドベースの吉川くんとのデュオ形式で演奏。
onnacodomoが即席で映像をつけてくれましたよ。
■2009/8/30(日)
<Lazing On a Sunday Afternoon>
代々木LionShare
出演:中嶋佑樹(SPIRO)、ユピトーク、徳永憲
SPIROの中嶋君に誘われて、日曜午後のイベントに。
自由にいこうと思ったらミスしたので、後半は締めてかかりました。
「飛び出しナイフ」は最近2ndを聴いているという友人JPのためにやってみた。
何年ぶりだ?
SET LIST
1.夢の中じゃ
2.パーソナル・ノー
3.ラッキー
4.雨が降り続いた
5.裸のステラ
6.オレンジ
7.おあいにくさま
8.エヴリー
9.飛び出しナイフ
10.今夜君に会えるといい
■2009/8/13(木)
亀有Ario
出演:徳永憲
夏の暮れなずむ空を見ながらエレキ弾き語り。
久々の野外の演奏となりました。
■2009/7/29(水)
<HIGH BRIDGE LINER 015>
渋谷SONGLINES
出演:徳永憲、トリマトリシカ、芋子&内縁の夫達
渋谷のセンター街を抜けた先にあるお店でひっそり弾き語り。
お越し頂いた皆様、ありがとうございました!
SET LIST
1.サンビーム
2.ハッピー・バースデイ
3.夜はとても優しくて
4.気にしないで
5.魂を救うだろう
6.おあいにくさま
7.ただ可憐なもの
8.エヴリー
9.S(スピード)
10.ネムノキ君
■2009/7/11(土)
<ELEKIBASS レコ発パーティ後半戦>
心斎橋クラブジャングル
出演:エレキベース、S▲ILS、山田稔明(GOMES THE HITMAN)、徳永憲
Talk show:中村佑介×小田島等
エレキベースのレコ発企画に便乗して大阪へ。3年半振り。
知り合いが多くて和気藹々とした、良い雰囲気のイベントでしたね。
豪華なトークショーも僕は普通にお客さんとして見て楽しんだ。
僕の演奏もリラックスしていて良かったのでは。
MCは相変わらずぶっきらぼうでしたが(すいません)。
SET LIST
1.ブルーブルー
2.マイ・サンダー
3.プリントドレス
4.裸のステラ
5.おあいにくさま
6.S(スピード)
7.今夜も暴走族の音
8.ネムノキ君
■2009/6/10(水)
三軒茶屋GrapefruitMoon
出演:神部冬馬、徳永 憲
冬馬くんに誘われて久し振りにグレープフルーツムーンに登場。
1時間近く、まったりと歌った。イベントの最後は二人で「ネヴァ・ギヴァ」。
SET LIST
1.日曜大工
2.ガールズ・フェスティバル
3.陽気なバラ
4.夢の中じゃ
5.オレンジ
6.雨が降り続いた
7.空を切る
8.途方もないから
9.今夜も暴走族の音
10.S(スピード)
11.ネムノキ君
12.優しいマペット
13.ただ可憐なもの
■2009/4/19(日)
渋谷Cabotte
出演:長坂雅司、徳永 憲
渋谷のワインバーでアコギ弾き語り。
お店の雰囲気も良く、じっくり集中して演奏できた。
懐かしい曲もちらほら。「空(くう)を切る」は初披露の新曲。
SET LIST
1.詩人
2.裸のステラ
3.看護婦のカーディガン
4.トンネル
5.おあいにくさま
6.ただ可憐なもの
7.今夜も暴走族の音
8.空を切る
9.君ははぐれている
10.S(スピード)
11.ハイウェイの貴公子
12.ネムノキ君
■2009/3/5(木)
代々木ZherTheZoo
出演:The Royalties、徳永 憲、中村ジョー、原田茶飯事、Mari Person
DJ:田中貴(サニーディ・サービス)
北欧ノルウェーのポップ・バンド、ロイヤルティーズの来日サポ-ト。
先日のレコ発バンドで参加。みんな笑顔でいいイベントでした。
■2009/2/12(木)
<『裸のステラ』リリース&活動10周年記念パーティ>
下北沢CLUBQue
出演:徳永 憲(ゲスト:小島麻由美、坂田学)、ELEKIBASS
盛り沢山の2時間。普段やれないような曲、編成もありで、大充実でした!
ツインドラムもスパークしてたし、小島麻由美も自由奔放で楽しすぎ。
皆様、ありがとうございました!(写真:蓮見直也)
SET LIST
1.インマイライフ!(あのねの歌)
2.21世紀ソング
3.お先に失礼
4.7(セブン)
5.ネヴァ・ギヴァ
6.なんだか迷惑だ
7.コートを召しませ
8.裸のステラ
9.途方もないから
10.恋の未完成
11.プリントドレス
12.夏の魔物
13.コーラの秘密
14.恋の極楽特急
15.アイヴィー
16.マテリアル・イシュー
17.オカエリ・ファンファーレ
(アンコール)
18.オートマチック・ラブラブマシーン
(アンコール)
19.ガールズ・フェスティバル
1~10、15~18→小島一浩(ds)
1~10、13~18→吉川真吾(b)
1~5、15~18→井上民雄(g)
9、10→柿沢健司(tp)、仲本興一郎(as)、松山寿々子(tb)
11~14、18→小島麻由美(vo、11のみds)
13~18→坂田学(ds)
2010年12月31日金曜日
2010年10月8日金曜日
黒姫バイト その2
(前回からの続き)
記憶は途切れ途切れだけど、結構細かいところを憶えている。
20年以上前の話だが、黒姫でのペンション・バイトはそれだけ鮮烈だったのだろう。
でも、ここはネット上なので、これ以上詳細に書かないでおきたい。
若旦那が女風呂を覗こうと言い出して、僕らに注意されたことも書かない。
場所が特定されてしまうと、宿の方に迷惑をかけてしまうので。
ペンションに約束のドラムやアンプ類が無かったことは、
僕らにしてみれば「騙された」と感じることだった。
自分達としては、それがあるからバイトを決めたのだ。
日給は長野県で決められた最低賃金。
10時間以上は働いていたので、それを時給に換算してみると…
頭を抱えることになる。
僕らを代表して平田君が、それを言いだしっぺの先輩に電話して抗議した。
フロントにあった公衆電話から大阪までの遠距離通話だ。
話を切り出すと、先輩の方もそれについては寝耳に水だったらしい。
どうも仲介をしている旅行会社がその約束をペンション側に伝えてないらしかった。
僕らはまた憤慨したが、事の次第が明るみになったおかげで、何やら状況が好転しそうなムードは出てきた。
そんなわけで、黒姫バイトが始まってから10日後。
やっと待ちに待った機材がペンションに届くことになった。
山道を抜け、ブロロンと登場したトラックにはドラムセット、ミキサー卓、ギター&ベース・アンプなどが積載されていた。
僕らはトラックの荷台ドアを開けて「おお!」と歓声をあげた。
しかし、問題がひとつあった。
合宿中のクラブ団体、つまりお客さんがペンション施設を使っている関係で、
荷物は降ろせないというのだ。
やるならトラックの中でやってくれ。電気はひくから、ということなのだ。
僕らは一瞬顔を見合わせた。
しかし、考えるまでもない。
全然OKだ。
そんなこと音を出せないことに比べたら何でもない。
むしろトラックの荷台でバンド練習なんて、カッコええやん、という話になった。
機材が届くまでの10日間、僕らは地味に練習していたのだ。
僕はエレキの生音をペチペチと、
ドラムの平田君&田辺君はスティックで週刊スピリッツをパタパタと、
キーボードの岩井君はヘッドフォンを耳にかけ鍵盤をカタカタと、
それぞれ孤独に鳴らしていただけだった。
それに比べたら天と地ほど違う。
何でもいいからやらせて下さい。
僕らはそう言った。
その後、みんなでトラックの荷台の中に入り、機材を配置し、ドラムキットを組み立てた。
そして、でっかい音を出した。
快感だったことは言うまでもないだろう。
トラック内は薄暗く、蒸し風呂のように暑くて、汗がだらだら出たけど、
僕らはそれを気持ちいいと感じた。
そこからの日々は、充実したものになった。
一気に僕らの精神状態も良くなった。
僕らが寝泊りしていたバンガローの前にはハンモックがあったんだけど、
そこにごろりと寝転んで、誰かが駐車場のトラックで個人練習している音を聞きながら昼寝をするのは、なかなかのものだった。
目を閉じた瞼の上では、緑の木々から漏れる陽光が揺れていた。
最初は仕事に慣れるまで大変だったが、
ペンション・バイトも後半になると調子が出てきた。
働く地元の皆さんとも仲良くなり、まかないもおかわりを遠慮なくした。
食事の配膳、そして片付けの要領も完全につかみ、
掃除はそれぞれの担当場所のエキスパートになった。
釣り堀の店番は気楽だったし(漫画「BECK」に出てくる釣り堀と似てた)、
自動販売機の補充は自由にやらせてもらえた。
僕個人的には、焼き魚皿に敷く笹の葉を一人で山に採りに行くのが好きだった。
森の中はいつだって静かだった。
午前中だと朝露が草木についていて、生々しい緑の匂いがした。
僕は笹の葉を採ったあとも、少しぐらいはいいだろう、と森の中でぼうっと立っていたものだ。
そして、仕事に慣れると、残された日々はあっという間なのだ。
最後の方は余裕があり過ぎて暇になり、漫画ばかり読んでいたな。
そんなこんなでバイトが終わった。
僕ら4人はペンションの方々に束の間のお別れを言い、関西のそれぞれの地元に帰った。
そして、また9月に今度はお客さんとしてそのペンションへ赴き、合宿生活をしたのだ。
ただし、この時はトラックの荷台でバンド練習はしていない。
トラックは駐車場から消えていた。
そして、しかるべき部屋にちゃんと機材がセッティングされていた。
僕ら4人は苦笑いした。
それはそれで、何か物足りなかったのだ。
これが僕の18歳の夏の思い出である。
BGM:
記憶は途切れ途切れだけど、結構細かいところを憶えている。
20年以上前の話だが、黒姫でのペンション・バイトはそれだけ鮮烈だったのだろう。
でも、ここはネット上なので、これ以上詳細に書かないでおきたい。
若旦那が女風呂を覗こうと言い出して、僕らに注意されたことも書かない。
場所が特定されてしまうと、宿の方に迷惑をかけてしまうので。
ペンションに約束のドラムやアンプ類が無かったことは、
僕らにしてみれば「騙された」と感じることだった。
自分達としては、それがあるからバイトを決めたのだ。
日給は長野県で決められた最低賃金。
10時間以上は働いていたので、それを時給に換算してみると…
頭を抱えることになる。
僕らを代表して平田君が、それを言いだしっぺの先輩に電話して抗議した。
フロントにあった公衆電話から大阪までの遠距離通話だ。
話を切り出すと、先輩の方もそれについては寝耳に水だったらしい。
どうも仲介をしている旅行会社がその約束をペンション側に伝えてないらしかった。
僕らはまた憤慨したが、事の次第が明るみになったおかげで、何やら状況が好転しそうなムードは出てきた。
そんなわけで、黒姫バイトが始まってから10日後。
やっと待ちに待った機材がペンションに届くことになった。
山道を抜け、ブロロンと登場したトラックにはドラムセット、ミキサー卓、ギター&ベース・アンプなどが積載されていた。
僕らはトラックの荷台ドアを開けて「おお!」と歓声をあげた。
しかし、問題がひとつあった。
合宿中のクラブ団体、つまりお客さんがペンション施設を使っている関係で、
荷物は降ろせないというのだ。
やるならトラックの中でやってくれ。電気はひくから、ということなのだ。
僕らは一瞬顔を見合わせた。
しかし、考えるまでもない。
全然OKだ。
そんなこと音を出せないことに比べたら何でもない。
むしろトラックの荷台でバンド練習なんて、カッコええやん、という話になった。
機材が届くまでの10日間、僕らは地味に練習していたのだ。
僕はエレキの生音をペチペチと、
ドラムの平田君&田辺君はスティックで週刊スピリッツをパタパタと、
キーボードの岩井君はヘッドフォンを耳にかけ鍵盤をカタカタと、
それぞれ孤独に鳴らしていただけだった。
それに比べたら天と地ほど違う。
何でもいいからやらせて下さい。
僕らはそう言った。
その後、みんなでトラックの荷台の中に入り、機材を配置し、ドラムキットを組み立てた。
そして、でっかい音を出した。
快感だったことは言うまでもないだろう。
トラック内は薄暗く、蒸し風呂のように暑くて、汗がだらだら出たけど、
僕らはそれを気持ちいいと感じた。
そこからの日々は、充実したものになった。
一気に僕らの精神状態も良くなった。
僕らが寝泊りしていたバンガローの前にはハンモックがあったんだけど、
そこにごろりと寝転んで、誰かが駐車場のトラックで個人練習している音を聞きながら昼寝をするのは、なかなかのものだった。
目を閉じた瞼の上では、緑の木々から漏れる陽光が揺れていた。
最初は仕事に慣れるまで大変だったが、
ペンション・バイトも後半になると調子が出てきた。
働く地元の皆さんとも仲良くなり、まかないもおかわりを遠慮なくした。
食事の配膳、そして片付けの要領も完全につかみ、
掃除はそれぞれの担当場所のエキスパートになった。
釣り堀の店番は気楽だったし(漫画「BECK」に出てくる釣り堀と似てた)、
自動販売機の補充は自由にやらせてもらえた。
僕個人的には、焼き魚皿に敷く笹の葉を一人で山に採りに行くのが好きだった。
森の中はいつだって静かだった。
午前中だと朝露が草木についていて、生々しい緑の匂いがした。
僕は笹の葉を採ったあとも、少しぐらいはいいだろう、と森の中でぼうっと立っていたものだ。
そして、仕事に慣れると、残された日々はあっという間なのだ。
最後の方は余裕があり過ぎて暇になり、漫画ばかり読んでいたな。
そんなこんなでバイトが終わった。
僕ら4人はペンションの方々に束の間のお別れを言い、関西のそれぞれの地元に帰った。
そして、また9月に今度はお客さんとしてそのペンションへ赴き、合宿生活をしたのだ。
ただし、この時はトラックの荷台でバンド練習はしていない。
トラックは駐車場から消えていた。
そして、しかるべき部屋にちゃんと機材がセッティングされていた。
僕ら4人は苦笑いした。
それはそれで、何か物足りなかったのだ。
これが僕の18歳の夏の思い出である。
BGM:
2010年10月4日月曜日
黒姫バイト その1
大学1回生の夏、同じクラブに所属していた友達4人でペンション・バイトをした。
場所はC.W.ニコルが住んでいることでも有名な、長野の黒姫山のふもと。
冬はスキー宿を商い、夏は大学サークルの夏合宿を受け入れるという宿だ。
先輩に「そこで働けば、空き時間に音楽をやれるぞ」と推薦された僕らはふたつ返事でバイトを決めた。
実際そのペンションへはうちのクラブも9月に行く予定になっており、
ドラムやアンプ、エレピなんかもあるらしく、これは練習をするのにはうってつけの環境だと僕らはテンションを上げたわけだ。
夏の信州と云えば避暑地だ。クソ暑い大阪を抜け出せる。
バイト料は安いにしろ、当然まかないは出るわけでこれは最高やんか!と、
皆わくわく胸を躍らせたのだ。
しかし、世の中そんなに甘いものではなかった。
僕らは大阪から長野へと旅立った。
日本海側のルートで電車を乗り継ぐこと、数時間。
僕らは初めての土地、黒姫へとやって来た。
改札を出ると、待っている筈のペンションの人がいなかった。
このへんから暗雲が立ち込めていたのだが、
十分後にボロボロのバンに乗って来た人を見て、僕は何だかとても悪い予感がした。
その人はペンションを切り盛りする若旦那さんだった。
ヨレヨレのTシャツに半ズボンというラフな格好の丸坊主男(27歳)で、
会うなりとても馴れ馴れしい態度だった。
そういう人間が苦手なことは僕の音楽を聴けばわかろう。
ましてや僕はまだ18歳だった。
彼は僕にいきなり「へぇ、ギター弾くんだ。なんでそれ持ってんの?」と訊いた。
その質問があること自体に、僕の悪い予感はさらに高まっていった。
僕らは若旦那に促され、年期の入ったバンに乗り込んだ。
そして、ペンションへと連行された。
しかし、着いてみるとそこは「ペンション」などというオシャレな空間ではなく、
普通の民家を何度も建て増しした、ただの不思議なスキー宿だった。
5段くらいの中途半端な階段が家のあちこちにあり、
歩いていると一体ここは何階なのか分からなくなった。
風呂はそこそこの大きさだったが、温泉ではなくパンフには「温泉風」と書いてあった。
それだったら書かない方がマシだった。
しかし、宿の敷地面積は広く、運動場やバンガロー、離れの宴会場、釣り堀池まであった。
そういうこともあり、体育会系やブラスバンドなど、大学の様々なクラブの夏合宿に利用されるのだ。
そして、僕の悪い予感は的中した。
約束されていた筈の音楽機材が何も無かったのだ!
若旦那は「そんな約束は知らない」と無下に言い放ち、
逆に「皆バイトで来たのになんで楽器をやるの?」と尋ねる始末だった。
僕らは「空き時間に練習できると言われたんで…」とショックを受けながら答えると、
「昼食の片付けと、夕食の準備までは休憩があるけど、釣り堀の客が来たら店番は頼むよ」と、
若旦那に朗らかに言いのけたのであった。
僕らは移動の疲れと、精神的ショックでくたくたになった。
しかし、明日からは早速、宿の食事や掃除、雑用に、と立ち働かなくてはならない。
僕らはとにかく早く一息つけたかった。
案内されたのは4つ並びのバンガロー。
そこが僕らの寝床だった。
しかし、一人一室ではなかった。
4つ並びのうちの1室が僕らにあてがわれ、
その6畳ほどの狭い室内にどうやって入れたのか2段ベッドが2つあり、
僕らはそこに寝る運命だった。
僕らはその光景をげんなりと眺めながら、
ここでこれから男4人で1ヶ月以上共同生活するのだ、と覚悟しなければならなかった。
荷をほどいたあと、僕らはバンガローの室内を掃除した。
そして、夕食、風呂を済ませた。
洗濯機のある場所やら(自分達の洗濯は当然自分達でする)、
どこのトイレを使用すればいいのか、などもチェックした。
そうこうしていると、ブレーカーが落ちた。
部屋でドライヤーを使った所為だったか、何だったかは憶えていない。
ただ、どっと疲れが増したことを記憶している。
僕らは一旦母屋へ帰った若旦那を再度呼びに行き、対処してもらった。
ひと段落した後、僕らは「とりあえずもう寝よう」と話し合った。
明日から早く起きなきゃいけないのだ。
その瞬間、今度はパン!という破裂音がバンガローに轟いた。
2段ベッドに登った岩井君が脳天で蛍光灯を割ったのだ。
ほの暗くなった室内に、破片や煙が舞った。
僕らは虚脱状態になった。
あかん。これはもう最悪や。
悪夢を見てるようだ。
もう寝るどころじゃない。
また一から掃除しなければ…。
ちなみにこの岩井君、僕のアルバムに時々クレジットされている鍵盤奏者です。
苦楽を共にした、古い友達なんです。
(つづく)
場所はC.W.ニコルが住んでいることでも有名な、長野の黒姫山のふもと。
冬はスキー宿を商い、夏は大学サークルの夏合宿を受け入れるという宿だ。
先輩に「そこで働けば、空き時間に音楽をやれるぞ」と推薦された僕らはふたつ返事でバイトを決めた。
実際そのペンションへはうちのクラブも9月に行く予定になっており、
ドラムやアンプ、エレピなんかもあるらしく、これは練習をするのにはうってつけの環境だと僕らはテンションを上げたわけだ。
夏の信州と云えば避暑地だ。クソ暑い大阪を抜け出せる。
バイト料は安いにしろ、当然まかないは出るわけでこれは最高やんか!と、
皆わくわく胸を躍らせたのだ。
しかし、世の中そんなに甘いものではなかった。
僕らは大阪から長野へと旅立った。
日本海側のルートで電車を乗り継ぐこと、数時間。
僕らは初めての土地、黒姫へとやって来た。
改札を出ると、待っている筈のペンションの人がいなかった。
このへんから暗雲が立ち込めていたのだが、
十分後にボロボロのバンに乗って来た人を見て、僕は何だかとても悪い予感がした。
その人はペンションを切り盛りする若旦那さんだった。
ヨレヨレのTシャツに半ズボンというラフな格好の丸坊主男(27歳)で、
会うなりとても馴れ馴れしい態度だった。
そういう人間が苦手なことは僕の音楽を聴けばわかろう。
ましてや僕はまだ18歳だった。
彼は僕にいきなり「へぇ、ギター弾くんだ。なんでそれ持ってんの?」と訊いた。
その質問があること自体に、僕の悪い予感はさらに高まっていった。
僕らは若旦那に促され、年期の入ったバンに乗り込んだ。
そして、ペンションへと連行された。
しかし、着いてみるとそこは「ペンション」などというオシャレな空間ではなく、
普通の民家を何度も建て増しした、ただの不思議なスキー宿だった。
5段くらいの中途半端な階段が家のあちこちにあり、
歩いていると一体ここは何階なのか分からなくなった。
風呂はそこそこの大きさだったが、温泉ではなくパンフには「温泉風」と書いてあった。
それだったら書かない方がマシだった。
しかし、宿の敷地面積は広く、運動場やバンガロー、離れの宴会場、釣り堀池まであった。
そういうこともあり、体育会系やブラスバンドなど、大学の様々なクラブの夏合宿に利用されるのだ。
そして、僕の悪い予感は的中した。
約束されていた筈の音楽機材が何も無かったのだ!
若旦那は「そんな約束は知らない」と無下に言い放ち、
逆に「皆バイトで来たのになんで楽器をやるの?」と尋ねる始末だった。
僕らは「空き時間に練習できると言われたんで…」とショックを受けながら答えると、
「昼食の片付けと、夕食の準備までは休憩があるけど、釣り堀の客が来たら店番は頼むよ」と、
若旦那に朗らかに言いのけたのであった。
僕らは移動の疲れと、精神的ショックでくたくたになった。
しかし、明日からは早速、宿の食事や掃除、雑用に、と立ち働かなくてはならない。
僕らはとにかく早く一息つけたかった。
案内されたのは4つ並びのバンガロー。
そこが僕らの寝床だった。
しかし、一人一室ではなかった。
4つ並びのうちの1室が僕らにあてがわれ、
その6畳ほどの狭い室内にどうやって入れたのか2段ベッドが2つあり、
僕らはそこに寝る運命だった。
僕らはその光景をげんなりと眺めながら、
ここでこれから男4人で1ヶ月以上共同生活するのだ、と覚悟しなければならなかった。
荷をほどいたあと、僕らはバンガローの室内を掃除した。
そして、夕食、風呂を済ませた。
洗濯機のある場所やら(自分達の洗濯は当然自分達でする)、
どこのトイレを使用すればいいのか、などもチェックした。
そうこうしていると、ブレーカーが落ちた。
部屋でドライヤーを使った所為だったか、何だったかは憶えていない。
ただ、どっと疲れが増したことを記憶している。
僕らは一旦母屋へ帰った若旦那を再度呼びに行き、対処してもらった。
ひと段落した後、僕らは「とりあえずもう寝よう」と話し合った。
明日から早く起きなきゃいけないのだ。
その瞬間、今度はパン!という破裂音がバンガローに轟いた。
2段ベッドに登った岩井君が脳天で蛍光灯を割ったのだ。
ほの暗くなった室内に、破片や煙が舞った。
僕らは虚脱状態になった。
あかん。これはもう最悪や。
悪夢を見てるようだ。
もう寝るどころじゃない。
また一から掃除しなければ…。
ちなみにこの岩井君、僕のアルバムに時々クレジットされている鍵盤奏者です。
苦楽を共にした、古い友達なんです。
(つづく)
2010年9月30日木曜日
クリムゾン・キングの宮殿
僕は大学時代、ピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部という音楽クラブに在籍していた。
ただ勧誘されるがままに主体的なものは何もなく入ったのだ。
だから最初は居心地があまり良くなかった。
でも、そのうちクラブ内に仲の良い友達が沢山できてくると、
何となくクラブ自体にも愛着が出て来たのだった。
軽音学部なんかに比べると“頑張ってるけど、報われない感”があって、
しかし、こんな名称じゃ仕方ないわ、というヌルさもクラブ内にどこかあって、好きだった。
何となく僕を守ってくれるような気がしたもんだ。
しかし、それは今になって思うことで、当時はもう少し熱かった。
2回生になった時、新入部員を勧誘するにあたって、僕はクラブを宣伝する看板を任された。
大学の構内に立て掛ける大きな看板を描き、設置するという係だ。
で、僕らニ回生は考えた。
多くの新入生を獲得する為にクラブの名前のイメージを少しでも変えるデザインがいいな、と。
…で、ミーティングを重ねみんなで考えた挙句、
その答えはこのアルバムのジャケットだ、という極論に達してしまったのだ。
キング・クリムゾンの衝撃的なデビュー・アルバム。
プログレ好きな若人を少しでも惹きつけようぜ、という大胆な企て。
それから一週間かけて、僕はみんなに手伝ってもらいながらこのジャケットの拡大版完コピ看板を描き上げたのだった。
それはかなり本物に近く、随分と迫力もあった。
なんせ自分の背丈より大きいのだ。
はっきり言って美術部の看板より明らかに優れており、技術もあり、
僕は我ながら惚れ惚れとしたのでありました。
当然みんなも気に入ってくれた。
…しかしだ。
結果的にプログレ好きな一回生など一人も入ってこなかったのだ。
大失敗だったわけである。
入部してきた一回生に「あの看板見た?」と訊くと、
「あれを見て入ろうかどうか迷いました」と言われる始末だった。
“頑張ってるけど、報われない感”
…僕は入部して1年もがいているうちにすっかりピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部に相応しい一員となっていたのであった。
メデタシ。メデタシ。
(2000年頃に書いた文章を転載)
ただ勧誘されるがままに主体的なものは何もなく入ったのだ。
だから最初は居心地があまり良くなかった。
でも、そのうちクラブ内に仲の良い友達が沢山できてくると、
何となくクラブ自体にも愛着が出て来たのだった。
軽音学部なんかに比べると“頑張ってるけど、報われない感”があって、
しかし、こんな名称じゃ仕方ないわ、というヌルさもクラブ内にどこかあって、好きだった。
何となく僕を守ってくれるような気がしたもんだ。
しかし、それは今になって思うことで、当時はもう少し熱かった。
2回生になった時、新入部員を勧誘するにあたって、僕はクラブを宣伝する看板を任された。
大学の構内に立て掛ける大きな看板を描き、設置するという係だ。
で、僕らニ回生は考えた。
多くの新入生を獲得する為にクラブの名前のイメージを少しでも変えるデザインがいいな、と。
…で、ミーティングを重ねみんなで考えた挙句、
その答えはこのアルバムのジャケットだ、という極論に達してしまったのだ。
キング・クリムゾンの衝撃的なデビュー・アルバム。
プログレ好きな若人を少しでも惹きつけようぜ、という大胆な企て。
それから一週間かけて、僕はみんなに手伝ってもらいながらこのジャケットの拡大版完コピ看板を描き上げたのだった。
それはかなり本物に近く、随分と迫力もあった。
なんせ自分の背丈より大きいのだ。
はっきり言って美術部の看板より明らかに優れており、技術もあり、
僕は我ながら惚れ惚れとしたのでありました。
当然みんなも気に入ってくれた。
…しかしだ。
結果的にプログレ好きな一回生など一人も入ってこなかったのだ。
大失敗だったわけである。
入部してきた一回生に「あの看板見た?」と訊くと、
「あれを見て入ろうかどうか迷いました」と言われる始末だった。
“頑張ってるけど、報われない感”
…僕は入部して1年もがいているうちにすっかりピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部に相応しい一員となっていたのであった。
メデタシ。メデタシ。
(2000年頃に書いた文章を転載)
2010年9月27日月曜日
紡績工場
高校を卒業し大学に入学するまでの春休み、小遣い稼ぎのアルバイトをした。
実家からチャリで20分程走った所にある紡績工場で。
そこはかなり大きな工場だった。
ガッタンゴットン、と絶え間なく大型工機のノイズが鳴っていて、
工場の入り口から続く細長い通路は先が霞んで見えないほどだった。
働く時間帯は「朝5時から昼1時」「昼1時から夜9時」の二つ。
それを1週間ずつ交代勤務していく。
僕はそれまで腑抜けた高校生活を送っていたので、
そのスケジュールがきつかった。
毎朝、暗い時間に起きるのはまさに試練。
しかも、労働自体もハードで、毎日退屈な繰り返し作業ばかり。
僕が担当していたのは、糸の精製の初期段階で使う機械のひとつ。
終業時にはいつもクタクタになり、休日は寝るだけになっていた。
また次の週が始まるという前夜には、相当に気が滅入ったものだ。
しかし、工場にはそれを何十年も続けているオッサンがいた。
無口なオッサンで、足を引き摺っていて(過去に機械に挟まれたのか?)、
僕がサボっていても何も言えない人だった。
その事実にも気が滅入った。
僕は自分の時給800円を指折り数えながら、いやいや仕事を続けた。
この頃、僕はアラン・シリトーが書くような労働者階級の生活を身をもって体験していたのであった。
さて。
ここからが本題なのだが、その紡績工場にはやたらと若い女工さんがいたのだ。
彼女らはみんなてきぱきと真面目に働いていて、
工場を回している原動力ぐらいのパワーを僕は感じた。
そんな彼女達、もちろん仕事中は私語を謹んでいるのだが、
休憩に入ると、みんな途端に元気に喋りだす。
それが何故か、東北弁なのだ。
僕は半分以上何を言ってるのか聞き取れなかった。
最初、全然事情を知らなくて、
僕は「なんか変なブームが来てるんだなー」などと思っていたのだが、違った。
彼女らは青森で中学を卒業した後、集団就職で来ている女の子達であったのだ。
誰もそんなことを事前に説明してくれなかったし、思ってもみなかったことなので、僕は驚いた。
終戦後の高度成長期にそういった集団就職があった、という話は知っていたけど、
現代でもまだそういう習慣が続いていたのか、と。
しかも、その人達が都会ではなく、自分の住んでいる町に来ていたのか、と。
全然知らなかった。
彼女達は町とは隔離された特異な環境、大きな工場の中で秘密のように生きていた。
だから僕なんかに知る由もなかったのだが。
工場の広大な敷地内には寮があった。
会社が責任を持って、彼女たちを預かっているという格好だった。
僕はバイト面接の時に「女の子には絶対に手を出さないように」と忠告されたことを思い出した。
おそらく彼女達も「地元の男には心を開くな」と教育されていたに違いない。
とにかく、彼女達はタフだった。
与えられた仕事を黙々とこなし、不満をこぼすこともなく、きびきびと動き回っていた。
そして、休憩時間になると、食堂で素早く食事を済ませた後、
(本当に息抜きが出来る)寮の自分の部屋へと帰っていった。
で、ものの10分もしないうちに寮から出てきて、
またいつもの労働に戻っていったのだ。
仕事が終わったら、その後、定時制高校へ行き、勉強するのだという。
僕は毎日クタクタだったというのに…本当にタフだ。
よく考えたら、僕は高校を卒業していたので彼女らよりも年上だったことになる。
情けないなぁ。
数週間後、春休みも終わりに近づいた時。
僕は短期バイトだったので、そこをあっさりと辞めた。
そして、新しい大学生活を向かえることになった。
話はここで終わり。
ぷっつり途切れる。
彼女らがその後どんな人生を歩んで行ったのか、僕はまったく知らない。
だけど、何となく今でも気になっているのだ。
工場は数年後に閉鎖された、という噂を友達から聞いた。
でも、僕は彼女達が今でもあの工場で元気に働いているような気がする。
そんなはずはないのだが。
BGM:
実家からチャリで20分程走った所にある紡績工場で。
そこはかなり大きな工場だった。
ガッタンゴットン、と絶え間なく大型工機のノイズが鳴っていて、
工場の入り口から続く細長い通路は先が霞んで見えないほどだった。
働く時間帯は「朝5時から昼1時」「昼1時から夜9時」の二つ。
それを1週間ずつ交代勤務していく。
僕はそれまで腑抜けた高校生活を送っていたので、
そのスケジュールがきつかった。
毎朝、暗い時間に起きるのはまさに試練。
しかも、労働自体もハードで、毎日退屈な繰り返し作業ばかり。
僕が担当していたのは、糸の精製の初期段階で使う機械のひとつ。
終業時にはいつもクタクタになり、休日は寝るだけになっていた。
また次の週が始まるという前夜には、相当に気が滅入ったものだ。
しかし、工場にはそれを何十年も続けているオッサンがいた。
無口なオッサンで、足を引き摺っていて(過去に機械に挟まれたのか?)、
僕がサボっていても何も言えない人だった。
その事実にも気が滅入った。
僕は自分の時給800円を指折り数えながら、いやいや仕事を続けた。
この頃、僕はアラン・シリトーが書くような労働者階級の生活を身をもって体験していたのであった。
さて。
ここからが本題なのだが、その紡績工場にはやたらと若い女工さんがいたのだ。
彼女らはみんなてきぱきと真面目に働いていて、
工場を回している原動力ぐらいのパワーを僕は感じた。
そんな彼女達、もちろん仕事中は私語を謹んでいるのだが、
休憩に入ると、みんな途端に元気に喋りだす。
それが何故か、東北弁なのだ。
僕は半分以上何を言ってるのか聞き取れなかった。
最初、全然事情を知らなくて、
僕は「なんか変なブームが来てるんだなー」などと思っていたのだが、違った。
彼女らは青森で中学を卒業した後、集団就職で来ている女の子達であったのだ。
誰もそんなことを事前に説明してくれなかったし、思ってもみなかったことなので、僕は驚いた。
終戦後の高度成長期にそういった集団就職があった、という話は知っていたけど、
現代でもまだそういう習慣が続いていたのか、と。
しかも、その人達が都会ではなく、自分の住んでいる町に来ていたのか、と。
全然知らなかった。
彼女達は町とは隔離された特異な環境、大きな工場の中で秘密のように生きていた。
だから僕なんかに知る由もなかったのだが。
工場の広大な敷地内には寮があった。
会社が責任を持って、彼女たちを預かっているという格好だった。
僕はバイト面接の時に「女の子には絶対に手を出さないように」と忠告されたことを思い出した。
おそらく彼女達も「地元の男には心を開くな」と教育されていたに違いない。
とにかく、彼女達はタフだった。
与えられた仕事を黙々とこなし、不満をこぼすこともなく、きびきびと動き回っていた。
そして、休憩時間になると、食堂で素早く食事を済ませた後、
(本当に息抜きが出来る)寮の自分の部屋へと帰っていった。
で、ものの10分もしないうちに寮から出てきて、
またいつもの労働に戻っていったのだ。
仕事が終わったら、その後、定時制高校へ行き、勉強するのだという。
僕は毎日クタクタだったというのに…本当にタフだ。
よく考えたら、僕は高校を卒業していたので彼女らよりも年上だったことになる。
情けないなぁ。
数週間後、春休みも終わりに近づいた時。
僕は短期バイトだったので、そこをあっさりと辞めた。
そして、新しい大学生活を向かえることになった。
話はここで終わり。
ぷっつり途切れる。
彼女らがその後どんな人生を歩んで行ったのか、僕はまったく知らない。
だけど、何となく今でも気になっているのだ。
工場は数年後に閉鎖された、という噂を友達から聞いた。
でも、僕は彼女達が今でもあの工場で元気に働いているような気がする。
そんなはずはないのだが。
BGM:
2010年9月15日水曜日
スリリングな床屋
その昔、僕はスリリングな床屋に通っていた。
高校生の頃だ。
カミソリ使いが下手な床屋、親父がモーロクしている床屋、もみあげはテクノにしますか?
といまだに訊いてくる床屋など、危険な匂いを放つ床屋は色々とあるだろうが、
そこだけは特別だった。
何とそこの床屋の主人は、人を殺したことがあったのだ。
昔殺人を犯して、今は刑期を終えた主人が髪を切ってくれるのだ。
カミソリで顔も剃ってくれる。
僕がその噂を聞いたのは、そこに通い出してからしばらく経った後だった。
何も知らないで僕はその床屋に「ちょっと安いから」という理由だけで何ヶ月も通っていたのだ。
散髪の腕の方は特に問題なかった。
ただその主人は的場浩二似の無口な中年男性で、得も知れぬ迫力があったのは確かだった。
通い出した頃から僕は目付きがマジでちょっと怖い感じだな、
と思っていたのは確かだったのだ。
時々シェパードやシベリアン・ハスキーと不意に目が合って、その攻撃態勢のマジ加減に怯むことがあるけれど、それに近い。
散髪の仕上がりに文句を言おうものなら、一喝されそうな眼力があった。
僕は「噂は噂だろう」と思おうとしたものの、その情報筋はかなり信頼できるもので、
どうやらそれは間違いなく事実だった。
僕は主人のあの迫力と“元殺人犯”という影の肩書きを重ね合わせて、
戦々恐々としてしまったのだ。
問題はそこから先だ。
そろそろ髪が伸びてきて、散髪しなきゃならんな、と思った頃。
僕は選択を迫られた。
いつものようにその床屋へ行くか、それとも別の床屋を開拓するか。
いつものように行く、とは言っても僕はもう伏せられた事実を知ってしまっていた。
意識せざるを得ない。
人を殺した人にこの身を無防備に預けなくてはならない。
無論、いきなり理由もなく殺されたりするわけはないのであるが、
どう考えてもやっぱり怖い。
相手はハサミ、カミソリをその手に握っているのだ。
もしかしたらドライヤーであぶり殺されるかもしれない。
じゃあ、やめればいいじゃん、と思われるかもしれないが、
そういうわけにもいかなかったのである。
僕は堂々巡りの考えをするうちに、別の床屋へ行く事がその主人に発覚したらヤバイ、
と恐れてしまったのだ。
常連だったのに他の床屋に乗りかえたとバレた時、
殺意が芽生えるかも…と考えてしまったのだ。
僕は悩んだ。
十代の頃、特に悩んだ経験はないものの、この時ばかりは悩んだ。
先生にも相談できなかった。
これはもう究極の選択である。
で…、結局どうしたか。
そう、僕はその殺人床屋へ、意を決して行ったのであった。
あの主人に殺意を抱かせない道を選び、ボサボサの髪を乗っけて行ったのだ。
客は僕一人だった。
店には元ヤンキーといった風采の奥さんらしき女性と、
例の主人が不機嫌そうに待ち構えていた。
入った瞬間に僕はもう後悔してしまった。
殺される。
何故かそう思ってしまった。
そう思ってからは地獄だった。
今まで感じたことのない緊張感が全身に走り、それが店じゅうに伝わっているような気がした。
僕はその緊張感をごまかそうと、何とか平静を装うとした。
主人は「今日はどうされます?」と訊いてきた。
僕は「任せます」と答えた。
これがまずかった。
元殺人犯は「任せます」がお気に召さないのだった。
一瞬、間(ま)が空いた。
僕は殺気を感じた。
もうダメだ!
死ぬ!
すると、奥さんが絶妙のタイミングで助け船を入れてくれた。
「いつもと一緒でいいですよね」
「ハ、ハイ!」
彼女は命の恩人だ。
今、僕が音楽活動をできるのも全て彼女のおかげだと言ってもいい。
ともかく、その日の散髪は終わった。
僕の髪型は妙にぴっちりしていた。
模範高校生のようであった。
全然ロックじゃなかった。
パンクなんて海の向こうの話だった。
でも、全然よかった。
次の日、学校で「ぴっちりしてるやん」と友達にからかわれたが、
もう僕はどうでも良かった。
生きてあそこから帰れただけで幸せ、
とその“ぴっちり髪型”を愛しく思ったぐらいだった。
スリリングな床屋。
その床屋は数年後、いつのまにか無くなっていた。
僕はその後もしばらく通ってはいたが、大学生になってからは行かなくなった。
僕は店をたたんだ理由を考えてみた。
元殺人犯、という世間の風評に負けたのだろうか。
案外、主人が体でも壊してしまったのだろうか。
奥さんと別れてしまったのであろうか。
それとも、客に逆上して殺してしまったのであろうか。
(2000年頃の文章を転載)
高校生の頃だ。
カミソリ使いが下手な床屋、親父がモーロクしている床屋、もみあげはテクノにしますか?
といまだに訊いてくる床屋など、危険な匂いを放つ床屋は色々とあるだろうが、
そこだけは特別だった。
何とそこの床屋の主人は、人を殺したことがあったのだ。
昔殺人を犯して、今は刑期を終えた主人が髪を切ってくれるのだ。
カミソリで顔も剃ってくれる。
僕がその噂を聞いたのは、そこに通い出してからしばらく経った後だった。
何も知らないで僕はその床屋に「ちょっと安いから」という理由だけで何ヶ月も通っていたのだ。
散髪の腕の方は特に問題なかった。
ただその主人は的場浩二似の無口な中年男性で、得も知れぬ迫力があったのは確かだった。
通い出した頃から僕は目付きがマジでちょっと怖い感じだな、
と思っていたのは確かだったのだ。
時々シェパードやシベリアン・ハスキーと不意に目が合って、その攻撃態勢のマジ加減に怯むことがあるけれど、それに近い。
散髪の仕上がりに文句を言おうものなら、一喝されそうな眼力があった。
僕は「噂は噂だろう」と思おうとしたものの、その情報筋はかなり信頼できるもので、
どうやらそれは間違いなく事実だった。
僕は主人のあの迫力と“元殺人犯”という影の肩書きを重ね合わせて、
戦々恐々としてしまったのだ。
問題はそこから先だ。
そろそろ髪が伸びてきて、散髪しなきゃならんな、と思った頃。
僕は選択を迫られた。
いつものようにその床屋へ行くか、それとも別の床屋を開拓するか。
いつものように行く、とは言っても僕はもう伏せられた事実を知ってしまっていた。
意識せざるを得ない。
人を殺した人にこの身を無防備に預けなくてはならない。
無論、いきなり理由もなく殺されたりするわけはないのであるが、
どう考えてもやっぱり怖い。
相手はハサミ、カミソリをその手に握っているのだ。
もしかしたらドライヤーであぶり殺されるかもしれない。
じゃあ、やめればいいじゃん、と思われるかもしれないが、
そういうわけにもいかなかったのである。
僕は堂々巡りの考えをするうちに、別の床屋へ行く事がその主人に発覚したらヤバイ、
と恐れてしまったのだ。
常連だったのに他の床屋に乗りかえたとバレた時、
殺意が芽生えるかも…と考えてしまったのだ。
僕は悩んだ。
十代の頃、特に悩んだ経験はないものの、この時ばかりは悩んだ。
先生にも相談できなかった。
これはもう究極の選択である。
で…、結局どうしたか。
そう、僕はその殺人床屋へ、意を決して行ったのであった。
あの主人に殺意を抱かせない道を選び、ボサボサの髪を乗っけて行ったのだ。
客は僕一人だった。
店には元ヤンキーといった風采の奥さんらしき女性と、
例の主人が不機嫌そうに待ち構えていた。
入った瞬間に僕はもう後悔してしまった。
殺される。
何故かそう思ってしまった。
そう思ってからは地獄だった。
今まで感じたことのない緊張感が全身に走り、それが店じゅうに伝わっているような気がした。
僕はその緊張感をごまかそうと、何とか平静を装うとした。
主人は「今日はどうされます?」と訊いてきた。
僕は「任せます」と答えた。
これがまずかった。
元殺人犯は「任せます」がお気に召さないのだった。
一瞬、間(ま)が空いた。
僕は殺気を感じた。
もうダメだ!
死ぬ!
すると、奥さんが絶妙のタイミングで助け船を入れてくれた。
「いつもと一緒でいいですよね」
「ハ、ハイ!」
彼女は命の恩人だ。
今、僕が音楽活動をできるのも全て彼女のおかげだと言ってもいい。
ともかく、その日の散髪は終わった。
僕の髪型は妙にぴっちりしていた。
模範高校生のようであった。
全然ロックじゃなかった。
パンクなんて海の向こうの話だった。
でも、全然よかった。
次の日、学校で「ぴっちりしてるやん」と友達にからかわれたが、
もう僕はどうでも良かった。
生きてあそこから帰れただけで幸せ、
とその“ぴっちり髪型”を愛しく思ったぐらいだった。
スリリングな床屋。
その床屋は数年後、いつのまにか無くなっていた。
僕はその後もしばらく通ってはいたが、大学生になってからは行かなくなった。
僕は店をたたんだ理由を考えてみた。
元殺人犯、という世間の風評に負けたのだろうか。
案外、主人が体でも壊してしまったのだろうか。
奥さんと別れてしまったのであろうか。
それとも、客に逆上して殺してしまったのであろうか。
(2000年頃の文章を転載)
2010年9月13日月曜日
Cryptic Creeps
人生初のバンドが「爽やかポップ」だったが故に早々に解散したという話は前回書いた。
しかしながら、解散したという意識は他のメンバーには無かったかもしれない。
何故なら次のバンドもエスカレーター式に同じメンバー構成になったからだ。
結局、みんな仲良しだったから、高校生の頃は得てしてそういうことになるのである。
ただし音楽性は思いっきり振り切れて、今度はハードコアなメタルを目指した。
バンド名はCryptic Creeps。
今度はコピーもやった。メタリカの「Damage Inc.」は決めの1曲だった。
僕は歌わず、ギターと曲作りに専念。
ヴォーカルは状況に応じて変わったりしていたな。
そのバンドでは高校の文化祭なんかにも出た。
めちゃくちゃだったけど、今ではいい思い出になっている。
地元のバンド・コンテストなんかにも出て「特別賞」というものをもらったなぁ。
何だか微妙な賞だが、要するに他のバンドと同じ土俵で評価してもらえなかったんだろう。
Cryptic Creepsはしかし、バンドでの活動よりもギターとヴォーカルだけのオリジナル曲をカセットに録音することの方に重点を置いていた。
メイン・ヴォーカルは前回も紹介した、ちょっと変わった人である「よっちゃん」である。
彼はシュールでお下劣なオリジナル・ギャグを幾つか持っていた。
下らない内容なんだけど、勢いと押し出しの強さだけで周囲を笑わせてしまう破壊力があった。
僕はゴリゴリのメタル・リフを作り、そこに彼の人間性を乗せてみたのだ。
基本1曲1分のスタンスで、カセットのAB面に何十曲も収録する、という悪ノリぶり。
当時、人気のあったアンスラックスとかビースティー・ボーイズのノリに影響を受けつつも、
メタルのギターリフと、瞬発的で意味不明なギャグのみで構成する音楽だったから、
これはかなり画期的だった。
未だかつてこういうメタルはなかった(恐らくこれからも出てこないだろう)。
友達に教室で聞かせたら、笑い死にしそうになっていたもんだ。
内輪受けでも、何となく面白そうな空間が出来ていればOK、という風潮が80年代後半にはあって、そんなムードにもマッチしていた。
音はローファイそのもの。同時代のダニエル・ジョンストンやセバドーの初期作に近い音像。
当然ビッグになる、などという観念は毛頭なく、
ただ自分達が笑えるものを作っていただけだった。
普通の高校生がバンド・ブームに浮かれていた時期に、
僕らはかなり独自の道を進んでいたことになる。
しかし、100曲以上量産し、色々とアイディアを練っていたこの頃の経験は、
その後の“まじめな”活動にも絶対に活かされていると思う。
自分で決めたコンセプトを誰の意見にも左右されずまっとうする、
という創作の流れはさほど今と変わらない。
というわけで、今回は聴いてみました。
その時の音源を。
カセットには「Cryptic Creeps 4」と書いてある。
4作目ということか。
しかし、聴きだしたらカセットが途中で空回りして止まってしまった。
テープが経年変化で劣化しているのだろうか。
でも、正直な話…
今はそれ以上聴かなくてもいい気分だ。
「糸こんにゃく~!」などとサビで叫んでいる1曲目のタイトルは「死ね!」。
こ、これは…ひどい。
どうしたもんだろうか。
確かに(あまりにひど過ぎて)くすっと笑ってしまったのは認めよう。
しかし、これは若気の至りと言うしかない代物だ。
前言撤回します。
こりゃダメだ。
この時代の僕は瘧がついていたとしか思えない。
何考えてたんだろうなぁ?
僕も記憶の中で美化し過ぎ。
その後の“まじめな”活動に、これの何が活かされていたんだ?
100曲も作るなよ…。
これはもう門外不出、決定。
Cryptic Creepsよ、永遠に。
以上。
BGM:The Drums / The Drums
しかしながら、解散したという意識は他のメンバーには無かったかもしれない。
何故なら次のバンドもエスカレーター式に同じメンバー構成になったからだ。
結局、みんな仲良しだったから、高校生の頃は得てしてそういうことになるのである。
ただし音楽性は思いっきり振り切れて、今度はハードコアなメタルを目指した。
バンド名はCryptic Creeps。
今度はコピーもやった。メタリカの「Damage Inc.」は決めの1曲だった。
僕は歌わず、ギターと曲作りに専念。
ヴォーカルは状況に応じて変わったりしていたな。
そのバンドでは高校の文化祭なんかにも出た。
めちゃくちゃだったけど、今ではいい思い出になっている。
地元のバンド・コンテストなんかにも出て「特別賞」というものをもらったなぁ。
何だか微妙な賞だが、要するに他のバンドと同じ土俵で評価してもらえなかったんだろう。
Cryptic Creepsはしかし、バンドでの活動よりもギターとヴォーカルだけのオリジナル曲をカセットに録音することの方に重点を置いていた。
メイン・ヴォーカルは前回も紹介した、ちょっと変わった人である「よっちゃん」である。
彼はシュールでお下劣なオリジナル・ギャグを幾つか持っていた。
下らない内容なんだけど、勢いと押し出しの強さだけで周囲を笑わせてしまう破壊力があった。
僕はゴリゴリのメタル・リフを作り、そこに彼の人間性を乗せてみたのだ。
基本1曲1分のスタンスで、カセットのAB面に何十曲も収録する、という悪ノリぶり。
当時、人気のあったアンスラックスとかビースティー・ボーイズのノリに影響を受けつつも、
メタルのギターリフと、瞬発的で意味不明なギャグのみで構成する音楽だったから、
これはかなり画期的だった。
未だかつてこういうメタルはなかった(恐らくこれからも出てこないだろう)。
友達に教室で聞かせたら、笑い死にしそうになっていたもんだ。
内輪受けでも、何となく面白そうな空間が出来ていればOK、という風潮が80年代後半にはあって、そんなムードにもマッチしていた。
音はローファイそのもの。同時代のダニエル・ジョンストンやセバドーの初期作に近い音像。
当然ビッグになる、などという観念は毛頭なく、
ただ自分達が笑えるものを作っていただけだった。
普通の高校生がバンド・ブームに浮かれていた時期に、
僕らはかなり独自の道を進んでいたことになる。
しかし、100曲以上量産し、色々とアイディアを練っていたこの頃の経験は、
その後の“まじめな”活動にも絶対に活かされていると思う。
自分で決めたコンセプトを誰の意見にも左右されずまっとうする、
という創作の流れはさほど今と変わらない。
というわけで、今回は聴いてみました。
その時の音源を。
カセットには「Cryptic Creeps 4」と書いてある。
4作目ということか。
しかし、聴きだしたらカセットが途中で空回りして止まってしまった。
テープが経年変化で劣化しているのだろうか。
でも、正直な話…
今はそれ以上聴かなくてもいい気分だ。
「糸こんにゃく~!」などとサビで叫んでいる1曲目のタイトルは「死ね!」。
こ、これは…ひどい。
どうしたもんだろうか。
確かに(あまりにひど過ぎて)くすっと笑ってしまったのは認めよう。
しかし、これは若気の至りと言うしかない代物だ。
前言撤回します。
こりゃダメだ。
この時代の僕は瘧がついていたとしか思えない。
何考えてたんだろうなぁ?
僕も記憶の中で美化し過ぎ。
その後の“まじめな”活動に、これの何が活かされていたんだ?
100曲も作るなよ…。
これはもう門外不出、決定。
Cryptic Creepsよ、永遠に。
以上。
BGM:The Drums / The Drums
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