2010年10月8日金曜日

黒姫バイト その2

(前回からの続き)
記憶は途切れ途切れだけど、結構細かいところを憶えている。
20年以上前の話だが、黒姫でのペンション・バイトはそれだけ鮮烈だったのだろう。
でも、ここはネット上なので、これ以上詳細に書かないでおきたい。
若旦那が女風呂を覗こうと言い出して、僕らに注意されたことも書かない。
場所が特定されてしまうと、宿の方に迷惑をかけてしまうので。
ペンションに約束のドラムやアンプ類が無かったことは、
僕らにしてみれば「騙された」と感じることだった。
自分達としては、それがあるからバイトを決めたのだ。
日給は長野県で決められた最低賃金。
10時間以上は働いていたので、それを時給に換算してみると…
頭を抱えることになる。
僕らを代表して平田君が、それを言いだしっぺの先輩に電話して抗議した。
フロントにあった公衆電話から大阪までの遠距離通話だ。
話を切り出すと、先輩の方もそれについては寝耳に水だったらしい。
どうも仲介をしている旅行会社がその約束をペンション側に伝えてないらしかった。
僕らはまた憤慨したが、事の次第が明るみになったおかげで、何やら状況が好転しそうなムードは出てきた。
そんなわけで、黒姫バイトが始まってから10日後。
やっと待ちに待った機材がペンションに届くことになった。
山道を抜け、ブロロンと登場したトラックにはドラムセット、ミキサー卓、ギター&ベース・アンプなどが積載されていた。
僕らはトラックの荷台ドアを開けて「おお!」と歓声をあげた。
しかし、問題がひとつあった。
合宿中のクラブ団体、つまりお客さんがペンション施設を使っている関係で、
荷物は降ろせないというのだ。
やるならトラックの中でやってくれ。電気はひくから、ということなのだ。
僕らは一瞬顔を見合わせた。
しかし、考えるまでもない。
全然OKだ。
そんなこと音を出せないことに比べたら何でもない。
むしろトラックの荷台でバンド練習なんて、カッコええやん、という話になった。
機材が届くまでの10日間、僕らは地味に練習していたのだ。
僕はエレキの生音をペチペチと、
ドラムの平田君&田辺君はスティックで週刊スピリッツをパタパタと、
キーボードの岩井君はヘッドフォンを耳にかけ鍵盤をカタカタと、
それぞれ孤独に鳴らしていただけだった。
それに比べたら天と地ほど違う。
何でもいいからやらせて下さい。
僕らはそう言った。
その後、みんなでトラックの荷台の中に入り、機材を配置し、ドラムキットを組み立てた。
そして、でっかい音を出した。
快感だったことは言うまでもないだろう。
トラック内は薄暗く、蒸し風呂のように暑くて、汗がだらだら出たけど、
僕らはそれを気持ちいいと感じた。
そこからの日々は、充実したものになった。
一気に僕らの精神状態も良くなった。
僕らが寝泊りしていたバンガローの前にはハンモックがあったんだけど、
そこにごろりと寝転んで、誰かが駐車場のトラックで個人練習している音を聞きながら昼寝をするのは、なかなかのものだった。
目を閉じた瞼の上では、緑の木々から漏れる陽光が揺れていた。
最初は仕事に慣れるまで大変だったが、
ペンション・バイトも後半になると調子が出てきた。
働く地元の皆さんとも仲良くなり、まかないもおかわりを遠慮なくした。
食事の配膳、そして片付けの要領も完全につかみ、
掃除はそれぞれの担当場所のエキスパートになった。
釣り堀の店番は気楽だったし(漫画「BECK」に出てくる釣り堀と似てた)、
自動販売機の補充は自由にやらせてもらえた。
僕個人的には、焼き魚皿に敷く笹の葉を一人で山に採りに行くのが好きだった。
森の中はいつだって静かだった。
午前中だと朝露が草木についていて、生々しい緑の匂いがした。
僕は笹の葉を採ったあとも、少しぐらいはいいだろう、と森の中でぼうっと立っていたものだ。
そして、仕事に慣れると、残された日々はあっという間なのだ。
最後の方は余裕があり過ぎて暇になり、漫画ばかり読んでいたな。
そんなこんなでバイトが終わった。
僕ら4人はペンションの方々に束の間のお別れを言い、関西のそれぞれの地元に帰った。
そして、また9月に今度はお客さんとしてそのペンションへ赴き、合宿生活をしたのだ。
ただし、この時はトラックの荷台でバンド練習はしていない。
トラックは駐車場から消えていた。
そして、しかるべき部屋にちゃんと機材がセッティングされていた。
僕ら4人は苦笑いした。
それはそれで、何か物足りなかったのだ。
これが僕の18歳の夏の思い出である。


BGM:

2010年10月4日月曜日

黒姫バイト その1

大学1回生の夏、同じクラブに所属していた友達4人でペンション・バイトをした。
場所はC.W.ニコルが住んでいることでも有名な、長野の黒姫山のふもと。
冬はスキー宿を商い、夏は大学サークルの夏合宿を受け入れるという宿だ。
先輩に「そこで働けば、空き時間に音楽をやれるぞ」と推薦された僕らはふたつ返事でバイトを決めた。
実際そのペンションへはうちのクラブも9月に行く予定になっており、
ドラムやアンプ、エレピなんかもあるらしく、これは練習をするのにはうってつけの環境だと僕らはテンションを上げたわけだ。
夏の信州と云えば避暑地だ。クソ暑い大阪を抜け出せる。
バイト料は安いにしろ、当然まかないは出るわけでこれは最高やんか!と、
皆わくわく胸を躍らせたのだ。
しかし、世の中そんなに甘いものではなかった。

僕らは大阪から長野へと旅立った。
日本海側のルートで電車を乗り継ぐこと、数時間。
僕らは初めての土地、黒姫へとやって来た。
改札を出ると、待っている筈のペンションの人がいなかった。
このへんから暗雲が立ち込めていたのだが、
十分後にボロボロのバンに乗って来た人を見て、僕は何だかとても悪い予感がした。
その人はペンションを切り盛りする若旦那さんだった。
ヨレヨレのTシャツに半ズボンというラフな格好の丸坊主男(27歳)で、
会うなりとても馴れ馴れしい態度だった。
そういう人間が苦手なことは僕の音楽を聴けばわかろう。
ましてや僕はまだ18歳だった。
彼は僕にいきなり「へぇ、ギター弾くんだ。なんでそれ持ってんの?」と訊いた。
その質問があること自体に、僕の悪い予感はさらに高まっていった。
僕らは若旦那に促され、年期の入ったバンに乗り込んだ。
そして、ペンションへと連行された。
しかし、着いてみるとそこは「ペンション」などというオシャレな空間ではなく、
普通の民家を何度も建て増しした、ただの不思議なスキー宿だった。
5段くらいの中途半端な階段が家のあちこちにあり、
歩いていると一体ここは何階なのか分からなくなった。
風呂はそこそこの大きさだったが、温泉ではなくパンフには「温泉風」と書いてあった。
それだったら書かない方がマシだった。
しかし、宿の敷地面積は広く、運動場やバンガロー、離れの宴会場、釣り堀池まであった。
そういうこともあり、体育会系やブラスバンドなど、大学の様々なクラブの夏合宿に利用されるのだ。
そして、僕の悪い予感は的中した。
約束されていた筈の音楽機材が何も無かったのだ!
若旦那は「そんな約束は知らない」と無下に言い放ち、
逆に「皆バイトで来たのになんで楽器をやるの?」と尋ねる始末だった。
僕らは「空き時間に練習できると言われたんで…」とショックを受けながら答えると、
「昼食の片付けと、夕食の準備までは休憩があるけど、釣り堀の客が来たら店番は頼むよ」と、
若旦那に朗らかに言いのけたのであった。
僕らは移動の疲れと、精神的ショックでくたくたになった。
しかし、明日からは早速、宿の食事や掃除、雑用に、と立ち働かなくてはならない。
僕らはとにかく早く一息つけたかった。

案内されたのは4つ並びのバンガロー。
そこが僕らの寝床だった。
しかし、一人一室ではなかった。
4つ並びのうちの1室が僕らにあてがわれ、
その6畳ほどの狭い室内にどうやって入れたのか2段ベッドが2つあり、
僕らはそこに寝る運命だった。
僕らはその光景をげんなりと眺めながら、
ここでこれから男4人で1ヶ月以上共同生活するのだ、と覚悟しなければならなかった。
荷をほどいたあと、僕らはバンガローの室内を掃除した。
そして、夕食、風呂を済ませた。
洗濯機のある場所やら(自分達の洗濯は当然自分達でする)、
どこのトイレを使用すればいいのか、などもチェックした。
そうこうしていると、ブレーカーが落ちた。
部屋でドライヤーを使った所為だったか、何だったかは憶えていない。
ただ、どっと疲れが増したことを記憶している。
僕らは一旦母屋へ帰った若旦那を再度呼びに行き、対処してもらった。
ひと段落した後、僕らは「とりあえずもう寝よう」と話し合った。
明日から早く起きなきゃいけないのだ。
その瞬間、今度はパン!という破裂音がバンガローに轟いた。
2段ベッドに登った岩井君が脳天で蛍光灯を割ったのだ。
ほの暗くなった室内に、破片や煙が舞った。
僕らは虚脱状態になった。
あかん。これはもう最悪や。
悪夢を見てるようだ。
もう寝るどころじゃない。
また一から掃除しなければ…。
ちなみにこの岩井君、僕のアルバムに時々クレジットされている鍵盤奏者です。
苦楽を共にした、古い友達なんです。



(つづく)