僕が東京にはじめて出て来た時、住んでいた部屋。
その階下にちょっとした変人が住んでいた。
一日中大音量でラジオを聞いているくせに僕が物音を立てるとヒステリーを起こし天井をドンドンと棒で突き上げた。
お前の方がうるせーよ、と僕はしょっちゅうツッこんでいたものだ。
他にも色々とあって僕はその変人にはかなり不快な印象を持っていたのだが、
奴の部屋は玄関の前を通ると少し匂い、カーテンは一年中閉まっていて、窓には大きな亀裂が入っているぐらいだったのであんまり係わり合いにはならない方が得策だと思い、なるべく気にしないようにしていた。
ある休日のこと。
変人部屋にピンポーンとインターフォンが鳴り、訪れる人がいるような物音が聞こえた。
僕は珍しいこともあるもんだな、と思い窓を開け、上からその様子を伺ってみることにした。その変人は状況証拠から察するに無職であることは間違いなく、その頃には僕は一体こいつはどういう生活をしているのだろう…と興味を抱くようになっていた。
訪れた人はどうやら電気量販店の従業員らしかった。
何かの電化製品の設置に来た、と言っている。
変人はドアを開けて、招き入れているようだ。
会話が少しあるようだが、上からでは聞き取れない。
だけどゴチャゴチャと何か業者の人がせわしなく動いている様子は伝わってきた。
僕は階下が気になって仕方なくなった。
上から覗くといつも閉まっている筈の玄関のドアが開け放たれている。
そんな事は見たことがない。
いつもうすら寒くジットリと閉まっているだけのドアだ。
業者の声が聞こえてきた。
困ったトーンがする。
「あのぉ、この辺を片付けてもらえませんか?」
僕は色めき立った。
何かある!
電気量販店の人間がそんな風に訴えることなど極めて稀なことだ。
僕は我慢できなくなった。
見てみたい。下を。
僕はまだその変人野郎の実物をこの目で見たことが無かったし、当然その部屋の内部も見たことがなかった。僕は出かけるフリをして階段を降り変人部屋の内部を見てやろう、と決心した。
やるとなれば急がなくてはならない。
いつ業者が逃げ出すか分からない。
ドアもいつまでも開きっ放しではないだろう。
僕は急いでスニーカーを履き、下に気付かれないようにドキドキしながらソーッとドアを開け、あっという間にスタタタと軽快に階段を降りていった。
目に入ったのは先ず玄関に50センチくらいの層になっているゴミの山で、
ハッと気付くとそれは部屋の奥からせり出てきたものだった。
そして、瞬間的に古新聞を敷き詰めた鳥カゴのような匂いがムッと鼻をついた。
壁がひどく黄ばんでいた。
元々自分の部屋と同じものだった部屋がどうしたらこんな惨状になるのか…。
僕は予想以上の結果にショックを受けてしまった。
自分の部屋の下にずっとこんな世界がまとわりついていたなんて。
残念ながらその時人影は捉えられなかった。
変人と電気業者はゴミ溜め部屋の奥のほうにいたみたいだ。
僕は心を静めるためにそのまま外に出て、近所をしばらく散歩することにした。
しかし、心を静めているうちにあの異常さが怖くなって、今度はあの部屋の前を通って自分の部屋に帰るのが億劫になってしまった。
これはかなりの誤算だった。
知らなければ良かったのかもしれない。
1千万人以上が暮らしているここ東京には知らなくてもいいことが沢山あるのだった。
ま、1時間後ちゃんと帰ったんだけどね。
その時はもう変人ゴミ溜め部屋はいつもの様子に戻っていた。
ふぅ、である。
その深夜。
だんだん腹が立ってきた。
ずっと奴のインパクトのせいで僕はその日、奴の事を考えてしまっていた。
奴のおかげで僕の休日は台無しになったわけだ。
その休日に僕は他にやるべきことが一杯あった筈だし、
もっとリラックスして過ごせる筈だった。
それが、ばってん思いがけない精神的ストレスを蒙ってしまったのだ。
悶々と考えていると、ガチャと下の変人部屋のドアが開いた。
奴はいつも深夜になると10分ほど出掛ける習慣があった。
僕はそれを「変人のコンビニ旅行」と呼んでいた。
すると、鬱屈したストレスが僕にまた変な好奇心を起こさせた。
こうなったら今日は徹底的に奴に振り回されてやろうじゃないか。
僕はそう思うと、すばやく身支度をして玄関を飛び出した。
路上に出る。
すると50メートルほど先にぽつりとコンビニの方に歩いてゆく人影があった。
奴だ。
僕は探偵になりきることにした。
尾行でもしちゃろう。
競歩のように歩を進め、僕は奴との距離をだんだんと詰めて行く。
いくら近づいてもいいのだ。
追い抜いたとしても向こうは僕が上の階の住人だと知る由もない。
僕が10メートルほど近くに来た時、奴は案の定コンビニの明かりに吸い込まれた。
いよいよ顔を見る時だ。
その時がやって来たのだ。
僕は何でも無い顔をして、変人野郎に続いてコンビニに入った。
奴は早速立ち読みを始めている。
後ろからその姿を見た。
それはただのオッサンであった。
むさっくるしいメガネに突き出た唇、中肉中背でひよこっぽい髪型。
どこにでもいる普通の身なりのトータル・バランスの悪い、汚いオッサンだ。
見てしまうと実にあっけないものだった。
拍子抜けしてしまった。
こんな平凡な人だったのか。
コンビニを一回りして僕は帰った。
世の中には変人がいっぱいいる。
しかし、その殆どが平凡な人間なのだ。
僕の探偵さわぎはあっという間に熱を失い、終わった。
(2000年頃の文章を転載)