2010年9月30日木曜日

クリムゾン・キングの宮殿

僕は大学時代、ピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部という音楽クラブに在籍していた。
ただ勧誘されるがままに主体的なものは何もなく入ったのだ。
だから最初は居心地があまり良くなかった。
でも、そのうちクラブ内に仲の良い友達が沢山できてくると、
何となくクラブ自体にも愛着が出て来たのだった。
軽音学部なんかに比べると“頑張ってるけど、報われない感”があって、
しかし、こんな名称じゃ仕方ないわ、というヌルさもクラブ内にどこかあって、好きだった。
何となく僕を守ってくれるような気がしたもんだ。
しかし、それは今になって思うことで、当時はもう少し熱かった。

2回生になった時、新入部員を勧誘するにあたって、僕はクラブを宣伝する看板を任された。
大学の構内に立て掛ける大きな看板を描き、設置するという係だ。
で、僕らニ回生は考えた。
多くの新入生を獲得する為にクラブの名前のイメージを少しでも変えるデザインがいいな、と。
…で、ミーティングを重ねみんなで考えた挙句、
その答えはこのアルバムのジャケットだ、という極論に達してしまったのだ。
キング・クリムゾンの衝撃的なデビュー・アルバム。
プログレ好きな若人を少しでも惹きつけようぜ、という大胆な企て。
それから一週間かけて、僕はみんなに手伝ってもらいながらこのジャケットの拡大版完コピ看板を描き上げたのだった。
それはかなり本物に近く、随分と迫力もあった。
なんせ自分の背丈より大きいのだ。
はっきり言って美術部の看板より明らかに優れており、技術もあり、
僕は我ながら惚れ惚れとしたのでありました。
当然みんなも気に入ってくれた。
…しかしだ。
結果的にプログレ好きな一回生など一人も入ってこなかったのだ。
大失敗だったわけである。
入部してきた一回生に「あの看板見た?」と訊くと、
「あれを見て入ろうかどうか迷いました」と言われる始末だった。

“頑張ってるけど、報われない感”
…僕は入部して1年もがいているうちにすっかりピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部に相応しい一員となっていたのであった。
メデタシ。メデタシ。



(2000年頃に書いた文章を転載)

2010年9月27日月曜日

紡績工場

高校を卒業し大学に入学するまでの春休み、小遣い稼ぎのアルバイトをした。
実家からチャリで20分程走った所にある紡績工場で。
そこはかなり大きな工場だった。
ガッタンゴットン、と絶え間なく大型工機のノイズが鳴っていて、
工場の入り口から続く細長い通路は先が霞んで見えないほどだった。
働く時間帯は「朝5時から昼1時」「昼1時から夜9時」の二つ。
それを1週間ずつ交代勤務していく。
僕はそれまで腑抜けた高校生活を送っていたので、
そのスケジュールがきつかった。
毎朝、暗い時間に起きるのはまさに試練。
しかも、労働自体もハードで、毎日退屈な繰り返し作業ばかり。
僕が担当していたのは、糸の精製の初期段階で使う機械のひとつ。
終業時にはいつもクタクタになり、休日は寝るだけになっていた。
また次の週が始まるという前夜には、相当に気が滅入ったものだ。
しかし、工場にはそれを何十年も続けているオッサンがいた。
無口なオッサンで、足を引き摺っていて(過去に機械に挟まれたのか?)、
僕がサボっていても何も言えない人だった。
その事実にも気が滅入った。
僕は自分の時給800円を指折り数えながら、いやいや仕事を続けた。
この頃、僕はアラン・シリトーが書くような労働者階級の生活を身をもって体験していたのであった。

さて。
ここからが本題なのだが、その紡績工場にはやたらと若い女工さんがいたのだ。
彼女らはみんなてきぱきと真面目に働いていて、
工場を回している原動力ぐらいのパワーを僕は感じた。
そんな彼女達、もちろん仕事中は私語を謹んでいるのだが、
休憩に入ると、みんな途端に元気に喋りだす。
それが何故か、東北弁なのだ。
僕は半分以上何を言ってるのか聞き取れなかった。
最初、全然事情を知らなくて、
僕は「なんか変なブームが来てるんだなー」などと思っていたのだが、違った。
彼女らは青森で中学を卒業した後、集団就職で来ている女の子達であったのだ。
誰もそんなことを事前に説明してくれなかったし、思ってもみなかったことなので、僕は驚いた。
終戦後の高度成長期にそういった集団就職があった、という話は知っていたけど、
現代でもまだそういう習慣が続いていたのか、と。
しかも、その人達が都会ではなく、自分の住んでいる町に来ていたのか、と。
全然知らなかった。
彼女達は町とは隔離された特異な環境、大きな工場の中で秘密のように生きていた。
だから僕なんかに知る由もなかったのだが。

工場の広大な敷地内には寮があった。
会社が責任を持って、彼女たちを預かっているという格好だった。
僕はバイト面接の時に「女の子には絶対に手を出さないように」と忠告されたことを思い出した。
おそらく彼女達も「地元の男には心を開くな」と教育されていたに違いない。
とにかく、彼女達はタフだった。
与えられた仕事を黙々とこなし、不満をこぼすこともなく、きびきびと動き回っていた。
そして、休憩時間になると、食堂で素早く食事を済ませた後、
(本当に息抜きが出来る)寮の自分の部屋へと帰っていった。
で、ものの10分もしないうちに寮から出てきて、
またいつもの労働に戻っていったのだ。
仕事が終わったら、その後、定時制高校へ行き、勉強するのだという。
僕は毎日クタクタだったというのに…本当にタフだ。
よく考えたら、僕は高校を卒業していたので彼女らよりも年上だったことになる。
情けないなぁ。

数週間後、春休みも終わりに近づいた時。
僕は短期バイトだったので、そこをあっさりと辞めた。
そして、新しい大学生活を向かえることになった。
話はここで終わり。
ぷっつり途切れる。
彼女らがその後どんな人生を歩んで行ったのか、僕はまったく知らない。
だけど、何となく今でも気になっているのだ。
工場は数年後に閉鎖された、という噂を友達から聞いた。
でも、僕は彼女達が今でもあの工場で元気に働いているような気がする。
そんなはずはないのだが。


BGM:

2010年9月15日水曜日

スリリングな床屋

その昔、僕はスリリングな床屋に通っていた。
高校生の頃だ。
カミソリ使いが下手な床屋、親父がモーロクしている床屋、もみあげはテクノにしますか?
といまだに訊いてくる床屋など、危険な匂いを放つ床屋は色々とあるだろうが、
そこだけは特別だった。
何とそこの床屋の主人は、人を殺したことがあったのだ。
昔殺人を犯して、今は刑期を終えた主人が髪を切ってくれるのだ。
カミソリで顔も剃ってくれる。
僕がその噂を聞いたのは、そこに通い出してからしばらく経った後だった。
何も知らないで僕はその床屋に「ちょっと安いから」という理由だけで何ヶ月も通っていたのだ。
散髪の腕の方は特に問題なかった。
ただその主人は的場浩二似の無口な中年男性で、得も知れぬ迫力があったのは確かだった。
通い出した頃から僕は目付きがマジでちょっと怖い感じだな、
と思っていたのは確かだったのだ。
時々シェパードやシベリアン・ハスキーと不意に目が合って、その攻撃態勢のマジ加減に怯むことがあるけれど、それに近い。
散髪の仕上がりに文句を言おうものなら、一喝されそうな眼力があった。
僕は「噂は噂だろう」と思おうとしたものの、その情報筋はかなり信頼できるもので、
どうやらそれは間違いなく事実だった。
僕は主人のあの迫力と“元殺人犯”という影の肩書きを重ね合わせて、
戦々恐々としてしまったのだ。

問題はそこから先だ。
そろそろ髪が伸びてきて、散髪しなきゃならんな、と思った頃。
僕は選択を迫られた。
いつものようにその床屋へ行くか、それとも別の床屋を開拓するか。
いつものように行く、とは言っても僕はもう伏せられた事実を知ってしまっていた。
意識せざるを得ない。
人を殺した人にこの身を無防備に預けなくてはならない。
無論、いきなり理由もなく殺されたりするわけはないのであるが、
どう考えてもやっぱり怖い。
相手はハサミ、カミソリをその手に握っているのだ。
もしかしたらドライヤーであぶり殺されるかもしれない。
じゃあ、やめればいいじゃん、と思われるかもしれないが、
そういうわけにもいかなかったのである。
僕は堂々巡りの考えをするうちに、別の床屋へ行く事がその主人に発覚したらヤバイ、
と恐れてしまったのだ。
常連だったのに他の床屋に乗りかえたとバレた時、
殺意が芽生えるかも…と考えてしまったのだ。

僕は悩んだ。
十代の頃、特に悩んだ経験はないものの、この時ばかりは悩んだ。
先生にも相談できなかった。
これはもう究極の選択である。
で…、結局どうしたか。
そう、僕はその殺人床屋へ、意を決して行ったのであった。
あの主人に殺意を抱かせない道を選び、ボサボサの髪を乗っけて行ったのだ。
客は僕一人だった。
店には元ヤンキーといった風采の奥さんらしき女性と、
例の主人が不機嫌そうに待ち構えていた。
入った瞬間に僕はもう後悔してしまった。

殺される。

何故かそう思ってしまった。
そう思ってからは地獄だった。
今まで感じたことのない緊張感が全身に走り、それが店じゅうに伝わっているような気がした。
僕はその緊張感をごまかそうと、何とか平静を装うとした。
主人は「今日はどうされます?」と訊いてきた。
僕は「任せます」と答えた。
これがまずかった。
元殺人犯は「任せます」がお気に召さないのだった。
一瞬、間(ま)が空いた。
僕は殺気を感じた。
もうダメだ!
死ぬ!
すると、奥さんが絶妙のタイミングで助け船を入れてくれた。
「いつもと一緒でいいですよね」
「ハ、ハイ!」
彼女は命の恩人だ。
今、僕が音楽活動をできるのも全て彼女のおかげだと言ってもいい。
ともかく、その日の散髪は終わった。
僕の髪型は妙にぴっちりしていた。
模範高校生のようであった。
全然ロックじゃなかった。
パンクなんて海の向こうの話だった。
でも、全然よかった。
次の日、学校で「ぴっちりしてるやん」と友達にからかわれたが、
もう僕はどうでも良かった。
生きてあそこから帰れただけで幸せ、
とその“ぴっちり髪型”を愛しく思ったぐらいだった。

スリリングな床屋。
その床屋は数年後、いつのまにか無くなっていた。
僕はその後もしばらく通ってはいたが、大学生になってからは行かなくなった。
僕は店をたたんだ理由を考えてみた。
元殺人犯、という世間の風評に負けたのだろうか。
案外、主人が体でも壊してしまったのだろうか。
奥さんと別れてしまったのであろうか。
それとも、客に逆上して殺してしまったのであろうか。


(2000年頃の文章を転載)

2010年9月13日月曜日

Cryptic Creeps

人生初のバンドが「爽やかポップ」だったが故に早々に解散したという話は前回書いた。
しかしながら、解散したという意識は他のメンバーには無かったかもしれない。
何故なら次のバンドもエスカレーター式に同じメンバー構成になったからだ。
結局、みんな仲良しだったから、高校生の頃は得てしてそういうことになるのである。
ただし音楽性は思いっきり振り切れて、今度はハードコアなメタルを目指した。
バンド名はCryptic Creeps。
今度はコピーもやった。メタリカの「Damage Inc.」は決めの1曲だった。
僕は歌わず、ギターと曲作りに専念。
ヴォーカルは状況に応じて変わったりしていたな。
そのバンドでは高校の文化祭なんかにも出た。
めちゃくちゃだったけど、今ではいい思い出になっている。
地元のバンド・コンテストなんかにも出て「特別賞」というものをもらったなぁ。
何だか微妙な賞だが、要するに他のバンドと同じ土俵で評価してもらえなかったんだろう。

Cryptic Creepsはしかし、バンドでの活動よりもギターとヴォーカルだけのオリジナル曲をカセットに録音することの方に重点を置いていた。
メイン・ヴォーカルは前回も紹介した、ちょっと変わった人である「よっちゃん」である。
彼はシュールでお下劣なオリジナル・ギャグを幾つか持っていた。
下らない内容なんだけど、勢いと押し出しの強さだけで周囲を笑わせてしまう破壊力があった。
僕はゴリゴリのメタル・リフを作り、そこに彼の人間性を乗せてみたのだ。
基本1曲1分のスタンスで、カセットのAB面に何十曲も収録する、という悪ノリぶり。
当時、人気のあったアンスラックスとかビースティー・ボーイズのノリに影響を受けつつも、
メタルのギターリフと、瞬発的で意味不明なギャグのみで構成する音楽だったから、
これはかなり画期的だった。
未だかつてこういうメタルはなかった(恐らくこれからも出てこないだろう)。
友達に教室で聞かせたら、笑い死にしそうになっていたもんだ。
内輪受けでも、何となく面白そうな空間が出来ていればOK、という風潮が80年代後半にはあって、そんなムードにもマッチしていた。
音はローファイそのもの。同時代のダニエル・ジョンストンやセバドーの初期作に近い音像。
当然ビッグになる、などという観念は毛頭なく、
ただ自分達が笑えるものを作っていただけだった。
普通の高校生がバンド・ブームに浮かれていた時期に、
僕らはかなり独自の道を進んでいたことになる。
しかし、100曲以上量産し、色々とアイディアを練っていたこの頃の経験は、
その後の“まじめな”活動にも絶対に活かされていると思う。
自分で決めたコンセプトを誰の意見にも左右されずまっとうする、
という創作の流れはさほど今と変わらない。

というわけで、今回は聴いてみました。
その時の音源を。

カセットには「Cryptic Creeps 4」と書いてある。
4作目ということか。
しかし、聴きだしたらカセットが途中で空回りして止まってしまった。
テープが経年変化で劣化しているのだろうか。
でも、正直な話…
今はそれ以上聴かなくてもいい気分だ。
「糸こんにゃく~!」などとサビで叫んでいる1曲目のタイトルは「死ね!」。
こ、これは…ひどい。
どうしたもんだろうか。
確かに(あまりにひど過ぎて)くすっと笑ってしまったのは認めよう。
しかし、これは若気の至りと言うしかない代物だ。
前言撤回します。
こりゃダメだ。
この時代の僕は瘧がついていたとしか思えない。
何考えてたんだろうなぁ?
僕も記憶の中で美化し過ぎ。
その後の“まじめな”活動に、これの何が活かされていたんだ?
100曲も作るなよ…。
これはもう門外不出、決定。
Cryptic Creepsよ、永遠に。
以上。


BGM:The Drums / The Drums

2010年9月4日土曜日

初めてバンドを組んだ

高校2年生の時、初めてバンドを組んだ。
バンド名はフローズン・テイル。凍った尻尾。
メンバーは学校の友達で、半分が初心者だった。
曲はいきなり僕のオリジナル。
定石通りなら簡単なコピーから練習に入りバンドの音を固めていくところだろうが、
僕はそんな回り道はイヤだった。
簡単な曲がいいのなら、それを書いてやる。
こうである。
まぁ、そのあたりは10代なので無理がきいた。
初めてだからと言って臆することはない。自分にやれることをやってみるだけだ。
実際、何とかなった。
リズム隊の二人は中学からブラスバンド部を続けていたおかげで頼りになった。
当然彼らは飲み込みも早いわけで、バンドは自然と様になっていった。
自分の曲が練習スタジオで具現化していくのを見て、僕はすごく高揚感を感じた。
それまでは頭の中だけで構想するだけだった。
それとはやはり雲泥の差、である。
勿論、演奏自体は個々の技量も含めて修正点は沢山あったけれども、
その課題が現実のものとして目の前にある感覚が強烈だった。
僕は完全に夢中になった。

因みにどんな曲をやっていたかというと…、ネオアコ+パワーポップみたいな英語曲。
アズテック・カメラが『ストレイ』で見せた方向性に近いかも。
でも、数ヵ月後、メンバーの中でその「爽やかさ」をバカにした奴が出たので、
僕はやる気を失ってしまい、フローズン・テイルは1回のライブだけでお仕舞いになってしまった。
何ともあっけない。
しかし、確かにそこは滋賀県の田舎町。
似合う音楽と似合わない音楽がある。
僕はそう思うようにした。

そのバカにしたメンバーというのがもう一人のギター、よっちゃんだった。
(野村義男の「よっちゃん」と違う関西風イントネーションで読んでね)
これがかなりのツワモノ。
エレキギターは親戚から譲り受けた、とか何とかで、
しかし弦の張り替え方を知らないので、気が付いたら弦1本で練習をしていたという高校生。
僕は驚いて「それで何を弾いてたねん?」と質問すると、
「ライトハンド。」という答えが返ってきた。
事実、よっちゃんはライトハンド奏法がすごく巧かった。
(それだけ1本弦ギターの時代が長かったことを意味する)
その1本が切れたらギターをやめるつもりだったのかもしれないが、
運良く残り1本のところで、僕と仲良くなり彼はバンドに加入することになった。
僕はすぐに弦の張り方を教えてあげた。

そんなよっちゃんだが、バンド加入にあたってもうひとつ些細な問題があった。
それは、ギターは持っていてもギターケースが無かったことである。
それでは外出できないのである。
ストラップで肩にギターをかけてそのまま自転車に乗ればええやん、と僕は言ったが、
それはキカイダーみたいでイヤらしかった。
「明日、雨が降ったら練習に行けない」と言われた時はさすがに僕も「ケース買えよ」と言った。
そんなある時。
よっちゃんは練習スタジオにギターをアディダスのボストンバッグに入れてやって来た。
でも、それではネックから上がバッグから突き出てしまう。
そこで彼は考え、そのネック部分に紫色の風呂敷を巻いて、登場した。
何かと思えば、ギターか。
僕はそう言った。
風呂敷をひらくとストラトキャスターは少し恥ずかしそうだった。
ちょっと上等な日本酒みたいだった。
練習スタジオで僕らは笑ったものである。

その帰り道。
駅の近くで偶然僕らはクラスの女の子2人とすれ違った。
別になんてことはなく、ただ軽く会釈しただけだったのだが、
よっちゃんだけが、ひどくうろたえていた。
他のメンバーが肩からギターケースを提げているのに、
自分だけ自転車のカゴにボストンバッグを入れていて、
しかもそこから紫の風呂敷に包まれた長いものが突き出ているのである。
やっとそれが恥ずかしい、ということを感じたようである。
「じょ、女子に見つかってしまった…」
さっきまで勢いよく笑っていたよっちゃんはひどく落ち込んでしまった。
帰り道、10回以上は「バレてしもうたかなぁ」というセリフを聞いた。
僕は半分呆れながらも「大丈夫や。誰もそれがギターやとは気がつかへん」とフォローした。
まぁ、そういうこともあってか、
彼は数日後、ギターケースを買ったのであった。
それ以来、女子とばったり出会うことはなかったけどな。

(つづく)