(前回からの続き)
とは言え、歌詞ならいくらでも書けるのだ。
自分のことを投影させた、魂を込めた、自伝的なものを。
これが面白いところだ。
音楽の不思議な力を僕はそういう所に感じていたりする。
リズムやメロディーに乗せるべき言葉がするすると出て来る時、
それは自伝的であろうが、完全なフィクションであろうが、
何の引け目もなく僕は自信を持って世に送り出すことが出来るのだ。
そこに自意識過剰云々、という価値観そのものが無用。
音楽のない所での言葉書きでは、瑣末なことに気を揉むくせに、
歌詞だとバッサリ断定できるし、色んな解釈をしてもらっても結構、という態度でいられる。
誤解されたらされたらで、それがあんたのキャパシティだと言い切ってしまえる。
その気持ちの落差は実に面白い。
ま、そんなわけで歌詞について少し書いてみよう。
これなら少し書き進め易いかもしれない。
実は最初、僕は自分が書く歌詞については深く考えていなかった。
高校生から大学生になった頃は、辞書を引きながら英語詞で書いていたぐらいだ。
しかし、それではさすがに自分が歌う内容が直接頭に入ってこない、というので止めた。
考えてみれば、元々いい歌詞が好きだったのだ。
それなのに自分がいい歌詞を書けてるかどうかも分からないのは、もどかしかったわけだ。
そう。洋楽を聴き始めた中学生の頃から、僕はいい歌詞の曲が好きだった。
テレビで対訳字幕つきのブルース・スプリングスティーンの「リヴァー」を観た時は鳥肌が立ったものだ。直接英語は聞き取れなくとも、その意味さえ頭に入ってくればその曲のエモーションが直接伝わってきて、ゾクゾクするような感覚を味わえた。
その後、ボブ・ディランやミック・ジャガーの素晴らしき詩才にも感銘を受けたりしていた。
そういう自分を思い返しつつ、僕は20歳の時、初めて日本語詞に挑んだ。
最初はどんな風になるのか分からないまま、書いてはボツ、書いてはボツというのを繰り返していたように思う。
誰とも相談せず、それをやったところで何になるんだろうか、ということも一切考えず、孤独に創作に明け暮れていた。
日本語詞と言えば、自分の中では阿久悠さんの書く歌詞ぐらいしか慣れ親しんだものはなかったろう(実際「ウルトラマンタロウ」「ウルトラマンレオ」の歌詞にはかなり影響されていると思う)。
そんな中、自己流に進めていった。
作っていると歌詞のヴィジョンが頭の中に次々と行き過ぎていき、
そこから何となく音楽自体の飛躍も生まれそうな気配が出てきた。
そして、何とか人前に出せそうな曲が5曲ほど仕上がり、
その中から2曲を選び、デモテープをレコード会社に送りつけた事が、
今現在へと至るきっかけ、だ。
ポニーキャニオンのディレクターさんに気に入られ「1回東京に遊びにおいでよ」と呼ばれ、
大阪から東京へ日帰りで遊びに行った時、
「徳永君は自分がどこがいいか分かってる? 歌詞がいいんだよ」と指摘された時は、
「曲じゃねーのかよ!」と思ったりもしたが、内心はほっとしたものだ。
このやり方は間違ってなかったと思って。
ちなみに最初の5曲の中からは「気にしないで」「トンネル」が発表されている。
これは今でも新曲に混ざってライブで普通に歌っている。
ちなみついでに、当時のディレクターさんとも今でも親交あります。
昔の話だが、これは断絶の物語じゃないのだ。
ちゃんと今現在へと繋がっている。
そして、僕の孤独な創作も、まだまだ続いていくのだ。
BGM:Harry / Nilsson