あれは真夏の夜だった。
チェルシーボロのバン練が終わったその夜、僕とおじいさんは高田馬場でさまよっていた。
どこかで夕食を摂りたく思っているのだが、うろうろと探していても今一つ決め手に欠ける店ばかりで、どうしたものか、と路頭に迷っていたのだ。
うどんじゃ物足らない気がするし、かと言って呑みたい気分でもなかった。
ブラブラしているうちに、繁華街の端の方にまで来ていた。
もうこの辺でそろそろ決めなきゃならんな…という場所で僕らは立ち止まった。
そこにその店はあった。一見チェーン展開風の中華定食店。
ガラス張りになった店頭には大きな宣伝タペストリーがかかっており、
「ジャージャー麺セット780円」
と書いてあって、その写真は実に旨そうであった。
店入口付近のホワイトボードには手書きのメニュー。
チャーハン・セット、餃子セットなど、手頃な価格設定で悪くなかった。
多分このパターンだといいんじゃないか。
僕はそう思った。
ちらっと店内を覗くと数人の客の姿が見えた。
こういう初めての店に入る時は客が入っているかどうか、が大きなポイントになったりするもんだ。
駄目な店だと閑古鳥が鳴いていて、それが何よりも真実を語っていてくれたりするのだ。
とりあえずここには客が3人はいる。大丈夫そうだ。
おじいさんも僕と同じ意見だった。
というわけで僕らは二人してギターを担ぎ、店に入っていった。
…今から考えると安易だった。
ここから悪夢のような出来事を僕らは経験する。
先ず店に入ってすぐに戦慄が走った。
「き、汚ない…」
店全体が雑然としていて、汚ないのだ。
外からはチェーン展開風タペストリーでうまくカバーされていて、見えなかった。
僕はもうこの時点で暗澹たる気持ちになった。
掃除や整理整頓をしていない店で旨いところなんてこの世には存在しないことぐらいよく判っていた。
「ああ、やってもうた…」
次にカウンターに座ろうとしてビックリした。
中華店によくある、床に固定してある赤い丸イス、あれの腰をかける丸い部分がないのだ。
そんなイスが幾つもある。
ありえない。床から鉄の棒が突き出ているだけ。
どうやったらそのイスに座れるのだろうか。
僕らは帰りたい気持ちを必死で抑え、突き出た棒イスをよけながら店の奥の方へと進んだ。
そこから先の光景はさらに汚ないものだった。
カウンターの上には雑巾が無造作に置かれ、ゴミ溜めのような厨房も丸見え。ステンレス製の業務用用具入れの戸は半分あいており、そこから古新聞、チラシ、ファミコンのコントローラー、食材なんかがはみ出ていた。
もう閉まらないらしかった。
僕らは仕方なくその奥のカウンターに座った。
因みに僕が座った丸イスは破れた皮の一部分をガムテで補強してあって、
そのガムテも破れているので、さらに上からガムテで補強してある優れものだった。
こういう歴史を経てこの丸イスもいつか「棒だけイス」になるのか…
と僕は思った。
ゴキブリ・ホイホイを頭の上に乗せたテレビがついていた。
画面はすごいゴーストで、何が映っているのかよく判らない。
僕は音を聞いてそれがナイター中継だとかろうじて判った。
店員がエゴイスティックにも注文を取りに来た。
何か食べないといけないらしい。
僕は困ってしまった。
何を選べば一番マシなんだろう。
考えた末、僕はチャーハン・セットにした。チャーハンと半ラーメンという王道セットだ。ホワイトボードの手書きメニューの中でも筆頭に書いてあったし、よく注文されるであろうメニューなら幾ら何でもそんな悲惨なことにはならないだろう、と踏んだのだ。
一方、おじいさんは「ジャージャー麺セット」に運命を託していた。
お互い考えていることは同じである。
おじいさんもあのでかでかと宣伝しているおすすめメニューなら、少しはマシなもんが出てくるだろうと考えたのだ。
しかし、ここで問題発生。
こんなに分かり易いメニューを注文したというのに、店員がよく分かってないのである。
「何?」というずうずうしい顔をして、無言でこっちを凝視してくる。
インド系の青年だった。外国人だからと言って差別するなんて僕の主義には全く反するが、
この店環境にして、こういう人をよこされると非常に頼りないと言わざるを得ない。
僕らが困惑していると、店の主人らしきオッサンが助け船を入れてきた。
インド君を介さなくとも聞こえてるよ、的な立ち振る舞いで「あいよ、チャーハン・セットとジャージャー麺セット」と不機嫌に言ったのである。
「あんた、頑張ってくれよ…」と僕は心の中で祈った。
しばらくすると「ジャッ、ジャッ、ジャッ、カツ、カツ、カツ」とチャーハンを炒める音がしてきた。
これは大丈夫そうだった。悲惨な感じではなさそうだ。僕は安心した。
テレビのナイター中継では丁度、誰かがホームランを打った。
悲惨だったのはジャージャー麺だった。注文してから10分は経っていただろうか。
(その時点で十分遅いよな…)
あのインド君がおもむろにザルにあげたホカホカの麺を持って、僕らの前に現れたのだ。
僕らの前には流し台があって、そこに来たらしかった。
おじいさんが「えっ」と小さな声をあげた。
僕は「かわいそうに」と心の中で線香をあげた。
インド君は流しの蛇口をひねり、真夏のぬるい水道水でぐちゃぐちゃと麺を手で揉み、
水切りもそこそこに立ち去ったのである。
完璧に味に無配慮な手さばきであった。
「まさか」と思ったが、
その10秒後、たった今の水浸し麺の上にぬるいタレがかかったジャージャー麺が登場した。
「ハイ、オマチ!」というカタコトの日本語とともに。
おじいさんは無縁仏みたいな表情だった。
僕の方はまだマシだった。
お盆にネギやご飯つぶが付着しているのに目をつぶれば、何とか自分を誤魔化せる味ではあった。
間違いなくマズかったのは確かだけど。
ふと横を見ると、おじいさんは人間の尊厳を奪われた顔をしていた。
インド君特製の手揉みジャージャーを半分残し、「もう限界や…」と僕に言った。
あの大食漢のおじいさんが残すとは、本当に珍しいことだった。
客はいつのまにか減り、ビールで独り晩酌をしているおじさんを残すのみとなっていた。
不思議だ。
どうして今夜はこんな店に、他に客がいたんだろう。
客の姿が見えなければ僕らはこんな店には入らなかっただろうに…。
僕らは今日という日の運命を呪った。
帰り道、僕の胃が急激にもたれてきた。
やっぱりダメなもんはダメなんだ、という事を僕は痛感させられた。
一体奴らはどんな油を使っていたのだろう。ものすごい胃もたれだった。
深夜になって眠りにつく頃になっても、それは全然治らなかった。
ベッドに入った僕に、腹の鈍い重さが色んなことを思い起こさせてくれた。
目を閉じると、脳裏にあの「棒だけイス」が浮かんできた。
あそこまでイスを使い倒すぐらいなら、昔は回転率良くお客さんが入っていたのだろうか。
あのイスを直さないのはそんな栄光の歴史にすがる為だからだろうか。
…どうでもよかった、そんなこと。
僕はその夜、なかなか寝付かれなかった。
※旧ホームページより転載