2010年12月31日金曜日

LIVE:2009-2010

■2010/5/27(木)
<HIGH BRIDGE GOES TO YOUR HOMES “ウチブリ Vol.53”>
渋谷HOME
出演:徳永 憲、無頼庵、カランツバターサブレ
7ヶ月ぶりのライブ。 エレキ弾き語り。チェルシーボロの曲もやった。
「ひっこみじあん」はいつ以来になるだろうか?

SET LIST

1.コーラの秘密
2.クスクス
3.マイ・サンダー
4.陽気なバラ
5.おあいにくさま
6.今夜も暴走族の音
7.ハイウェイの貴公子
8.ひっこみじあん
9.S(スピード)
10.チェルシーマウス
 


■2009/10/12(月・祝)
<Tokyo Pop Festival>
飯田橋 東京日仏学院
出演:ELEKIBASS、HARCO、ALOHA、acari、onnacodomo
原田茶飯事BAND、渡辺シュンスケ、PetBottles、2 from FullSwing
advantage Lucy、Ra’con、クノシンジ、小田晃生、ソフテロ、世武裕子
徳永憲
DJ:渚十吾、長坂雅司
日仏学院はフランス政府の公式機関で、日本の中のフランス。
そこでお昼から夜まで行われるミニ・フェスティバルに出演。
僕は映画館にてウッドベースの吉川くんとのデュオ形式で演奏。
onnacodomoが即席で映像をつけてくれましたよ。
 


■2009/8/30(日)
<Lazing On a Sunday Afternoon>
代々木LionShare
出演:中嶋佑樹(SPIRO)、ユピトーク、徳永憲
SPIROの中嶋君に誘われて、日曜午後のイベントに。
自由にいこうと思ったらミスしたので、後半は締めてかかりました。
「飛び出しナイフ」は最近2ndを聴いているという友人JPのためにやってみた。
何年ぶりだ?

SET LIST

1.夢の中じゃ
2.パーソナル・ノー
3.ラッキー
4.雨が降り続いた
5.裸のステラ
6.オレンジ
7.おあいにくさま
8.エヴリー
9.飛び出しナイフ
10.今夜君に会えるといい
 


■2009/8/13(木)
亀有Ario
出演:徳永憲
夏の暮れなずむ空を見ながらエレキ弾き語り。
久々の野外の演奏となりました。
 


■2009/7/29(水)
<HIGH BRIDGE LINER 015>
渋谷SONGLINES
出演:徳永憲、トリマトリシカ、芋子&内縁の夫達
渋谷のセンター街を抜けた先にあるお店でひっそり弾き語り。
お越し頂いた皆様、ありがとうございました!

SET LIST

1.サンビーム
2.ハッピー・バースデイ
3.夜はとても優しくて
4.気にしないで
5.魂を救うだろう
6.おあいにくさま
7.ただ可憐なもの
8.エヴリー
9.S(スピード)
10.ネムノキ君
 


■2009/7/11(土)
<ELEKIBASS レコ発パーティ後半戦>
心斎橋クラブジャングル
出演:エレキベース、S▲ILS、山田稔明(GOMES THE HITMAN)、徳永憲
Talk show:中村佑介×小田島等
エレキベースのレコ発企画に便乗して大阪へ。3年半振り。
知り合いが多くて和気藹々とした、良い雰囲気のイベントでしたね。
豪華なトークショーも僕は普通にお客さんとして見て楽しんだ。
僕の演奏もリラックスしていて良かったのでは。
MCは相変わらずぶっきらぼうでしたが(すいません)。

SET LIST

1.ブルーブルー
2.マイ・サンダー
3.プリントドレス
4.裸のステラ
5.おあいにくさま
6.S(スピード)
7.今夜も暴走族の音
8.ネムノキ君
 


■2009/6/10(水)
三軒茶屋GrapefruitMoon
出演:神部冬馬、徳永 憲
冬馬くんに誘われて久し振りにグレープフルーツムーンに登場。
1時間近く、まったりと歌った。イベントの最後は二人で「ネヴァ・ギヴァ」。

SET LIST

1.日曜大工
2.ガールズ・フェスティバル
3.陽気なバラ
4.夢の中じゃ
5.オレンジ
6.雨が降り続いた
7.空を切る
8.途方もないから
9.今夜も暴走族の音
10.S(スピード)
11.ネムノキ君
12.優しいマペット
13.ただ可憐なもの
 


■2009/4/19(日)
渋谷Cabotte
出演:長坂雅司、徳永 憲
渋谷のワインバーでアコギ弾き語り。
お店の雰囲気も良く、じっくり集中して演奏できた。
懐かしい曲もちらほら。「空(くう)を切る」は初披露の新曲。

SET LIST

1.詩人
2.裸のステラ
3.看護婦のカーディガン
4.トンネル
5.おあいにくさま
6.ただ可憐なもの
7.今夜も暴走族の音
8.空を切る
9.君ははぐれている
10.S(スピード)
11.ハイウェイの貴公子
12.ネムノキ君
 


■2009/3/5(木)
代々木ZherTheZoo
出演:The Royalties、徳永 憲、中村ジョー、原田茶飯事、Mari Person
DJ:田中貴(サニーディ・サービス)
北欧ノルウェーのポップ・バンド、ロイヤルティーズの来日サポ-ト。
先日のレコ発バンドで参加。みんな笑顔でいいイベントでした。
 


■2009/2/12(木)
<『裸のステラ』リリース&活動10周年記念パーティ>
下北沢CLUBQue
出演:徳永 憲(ゲスト:小島麻由美、坂田学)、ELEKIBASS
盛り沢山の2時間。普段やれないような曲、編成もありで、大充実でした!
ツインドラムもスパークしてたし、小島麻由美も自由奔放で楽しすぎ。
皆様、ありがとうございました!(写真:蓮見直也)

SET LIST

1.インマイライフ!(あのねの歌)
2.21世紀ソング
3.お先に失礼
4.7(セブン)
5.ネヴァ・ギヴァ
6.なんだか迷惑だ
7.コートを召しませ
8.裸のステラ
9.途方もないから
10.恋の未完成
11.プリントドレス
12.夏の魔物
13.コーラの秘密
14.恋の極楽特急
15.アイヴィー
16.マテリアル・イシュー
17.オカエリ・ファンファーレ
(アンコール)
18.オートマチック・ラブラブマシーン
(アンコール)
19.ガールズ・フェスティバル

1~10、15~18→小島一浩(ds)
1~10、13~18→吉川真吾(b)
1~5、15~18→井上民雄(g)
9、10→柿沢健司(tp)、仲本興一郎(as)、松山寿々子(tb)
11~14、18→小島麻由美(vo、11のみds)
13~18→坂田学(ds)

2010年10月8日金曜日

黒姫バイト その2

(前回からの続き)
記憶は途切れ途切れだけど、結構細かいところを憶えている。
20年以上前の話だが、黒姫でのペンション・バイトはそれだけ鮮烈だったのだろう。
でも、ここはネット上なので、これ以上詳細に書かないでおきたい。
若旦那が女風呂を覗こうと言い出して、僕らに注意されたことも書かない。
場所が特定されてしまうと、宿の方に迷惑をかけてしまうので。
ペンションに約束のドラムやアンプ類が無かったことは、
僕らにしてみれば「騙された」と感じることだった。
自分達としては、それがあるからバイトを決めたのだ。
日給は長野県で決められた最低賃金。
10時間以上は働いていたので、それを時給に換算してみると…
頭を抱えることになる。
僕らを代表して平田君が、それを言いだしっぺの先輩に電話して抗議した。
フロントにあった公衆電話から大阪までの遠距離通話だ。
話を切り出すと、先輩の方もそれについては寝耳に水だったらしい。
どうも仲介をしている旅行会社がその約束をペンション側に伝えてないらしかった。
僕らはまた憤慨したが、事の次第が明るみになったおかげで、何やら状況が好転しそうなムードは出てきた。
そんなわけで、黒姫バイトが始まってから10日後。
やっと待ちに待った機材がペンションに届くことになった。
山道を抜け、ブロロンと登場したトラックにはドラムセット、ミキサー卓、ギター&ベース・アンプなどが積載されていた。
僕らはトラックの荷台ドアを開けて「おお!」と歓声をあげた。
しかし、問題がひとつあった。
合宿中のクラブ団体、つまりお客さんがペンション施設を使っている関係で、
荷物は降ろせないというのだ。
やるならトラックの中でやってくれ。電気はひくから、ということなのだ。
僕らは一瞬顔を見合わせた。
しかし、考えるまでもない。
全然OKだ。
そんなこと音を出せないことに比べたら何でもない。
むしろトラックの荷台でバンド練習なんて、カッコええやん、という話になった。
機材が届くまでの10日間、僕らは地味に練習していたのだ。
僕はエレキの生音をペチペチと、
ドラムの平田君&田辺君はスティックで週刊スピリッツをパタパタと、
キーボードの岩井君はヘッドフォンを耳にかけ鍵盤をカタカタと、
それぞれ孤独に鳴らしていただけだった。
それに比べたら天と地ほど違う。
何でもいいからやらせて下さい。
僕らはそう言った。
その後、みんなでトラックの荷台の中に入り、機材を配置し、ドラムキットを組み立てた。
そして、でっかい音を出した。
快感だったことは言うまでもないだろう。
トラック内は薄暗く、蒸し風呂のように暑くて、汗がだらだら出たけど、
僕らはそれを気持ちいいと感じた。
そこからの日々は、充実したものになった。
一気に僕らの精神状態も良くなった。
僕らが寝泊りしていたバンガローの前にはハンモックがあったんだけど、
そこにごろりと寝転んで、誰かが駐車場のトラックで個人練習している音を聞きながら昼寝をするのは、なかなかのものだった。
目を閉じた瞼の上では、緑の木々から漏れる陽光が揺れていた。
最初は仕事に慣れるまで大変だったが、
ペンション・バイトも後半になると調子が出てきた。
働く地元の皆さんとも仲良くなり、まかないもおかわりを遠慮なくした。
食事の配膳、そして片付けの要領も完全につかみ、
掃除はそれぞれの担当場所のエキスパートになった。
釣り堀の店番は気楽だったし(漫画「BECK」に出てくる釣り堀と似てた)、
自動販売機の補充は自由にやらせてもらえた。
僕個人的には、焼き魚皿に敷く笹の葉を一人で山に採りに行くのが好きだった。
森の中はいつだって静かだった。
午前中だと朝露が草木についていて、生々しい緑の匂いがした。
僕は笹の葉を採ったあとも、少しぐらいはいいだろう、と森の中でぼうっと立っていたものだ。
そして、仕事に慣れると、残された日々はあっという間なのだ。
最後の方は余裕があり過ぎて暇になり、漫画ばかり読んでいたな。
そんなこんなでバイトが終わった。
僕ら4人はペンションの方々に束の間のお別れを言い、関西のそれぞれの地元に帰った。
そして、また9月に今度はお客さんとしてそのペンションへ赴き、合宿生活をしたのだ。
ただし、この時はトラックの荷台でバンド練習はしていない。
トラックは駐車場から消えていた。
そして、しかるべき部屋にちゃんと機材がセッティングされていた。
僕ら4人は苦笑いした。
それはそれで、何か物足りなかったのだ。
これが僕の18歳の夏の思い出である。


BGM:

2010年10月4日月曜日

黒姫バイト その1

大学1回生の夏、同じクラブに所属していた友達4人でペンション・バイトをした。
場所はC.W.ニコルが住んでいることでも有名な、長野の黒姫山のふもと。
冬はスキー宿を商い、夏は大学サークルの夏合宿を受け入れるという宿だ。
先輩に「そこで働けば、空き時間に音楽をやれるぞ」と推薦された僕らはふたつ返事でバイトを決めた。
実際そのペンションへはうちのクラブも9月に行く予定になっており、
ドラムやアンプ、エレピなんかもあるらしく、これは練習をするのにはうってつけの環境だと僕らはテンションを上げたわけだ。
夏の信州と云えば避暑地だ。クソ暑い大阪を抜け出せる。
バイト料は安いにしろ、当然まかないは出るわけでこれは最高やんか!と、
皆わくわく胸を躍らせたのだ。
しかし、世の中そんなに甘いものではなかった。

僕らは大阪から長野へと旅立った。
日本海側のルートで電車を乗り継ぐこと、数時間。
僕らは初めての土地、黒姫へとやって来た。
改札を出ると、待っている筈のペンションの人がいなかった。
このへんから暗雲が立ち込めていたのだが、
十分後にボロボロのバンに乗って来た人を見て、僕は何だかとても悪い予感がした。
その人はペンションを切り盛りする若旦那さんだった。
ヨレヨレのTシャツに半ズボンというラフな格好の丸坊主男(27歳)で、
会うなりとても馴れ馴れしい態度だった。
そういう人間が苦手なことは僕の音楽を聴けばわかろう。
ましてや僕はまだ18歳だった。
彼は僕にいきなり「へぇ、ギター弾くんだ。なんでそれ持ってんの?」と訊いた。
その質問があること自体に、僕の悪い予感はさらに高まっていった。
僕らは若旦那に促され、年期の入ったバンに乗り込んだ。
そして、ペンションへと連行された。
しかし、着いてみるとそこは「ペンション」などというオシャレな空間ではなく、
普通の民家を何度も建て増しした、ただの不思議なスキー宿だった。
5段くらいの中途半端な階段が家のあちこちにあり、
歩いていると一体ここは何階なのか分からなくなった。
風呂はそこそこの大きさだったが、温泉ではなくパンフには「温泉風」と書いてあった。
それだったら書かない方がマシだった。
しかし、宿の敷地面積は広く、運動場やバンガロー、離れの宴会場、釣り堀池まであった。
そういうこともあり、体育会系やブラスバンドなど、大学の様々なクラブの夏合宿に利用されるのだ。
そして、僕の悪い予感は的中した。
約束されていた筈の音楽機材が何も無かったのだ!
若旦那は「そんな約束は知らない」と無下に言い放ち、
逆に「皆バイトで来たのになんで楽器をやるの?」と尋ねる始末だった。
僕らは「空き時間に練習できると言われたんで…」とショックを受けながら答えると、
「昼食の片付けと、夕食の準備までは休憩があるけど、釣り堀の客が来たら店番は頼むよ」と、
若旦那に朗らかに言いのけたのであった。
僕らは移動の疲れと、精神的ショックでくたくたになった。
しかし、明日からは早速、宿の食事や掃除、雑用に、と立ち働かなくてはならない。
僕らはとにかく早く一息つけたかった。

案内されたのは4つ並びのバンガロー。
そこが僕らの寝床だった。
しかし、一人一室ではなかった。
4つ並びのうちの1室が僕らにあてがわれ、
その6畳ほどの狭い室内にどうやって入れたのか2段ベッドが2つあり、
僕らはそこに寝る運命だった。
僕らはその光景をげんなりと眺めながら、
ここでこれから男4人で1ヶ月以上共同生活するのだ、と覚悟しなければならなかった。
荷をほどいたあと、僕らはバンガローの室内を掃除した。
そして、夕食、風呂を済ませた。
洗濯機のある場所やら(自分達の洗濯は当然自分達でする)、
どこのトイレを使用すればいいのか、などもチェックした。
そうこうしていると、ブレーカーが落ちた。
部屋でドライヤーを使った所為だったか、何だったかは憶えていない。
ただ、どっと疲れが増したことを記憶している。
僕らは一旦母屋へ帰った若旦那を再度呼びに行き、対処してもらった。
ひと段落した後、僕らは「とりあえずもう寝よう」と話し合った。
明日から早く起きなきゃいけないのだ。
その瞬間、今度はパン!という破裂音がバンガローに轟いた。
2段ベッドに登った岩井君が脳天で蛍光灯を割ったのだ。
ほの暗くなった室内に、破片や煙が舞った。
僕らは虚脱状態になった。
あかん。これはもう最悪や。
悪夢を見てるようだ。
もう寝るどころじゃない。
また一から掃除しなければ…。
ちなみにこの岩井君、僕のアルバムに時々クレジットされている鍵盤奏者です。
苦楽を共にした、古い友達なんです。



(つづく)

2010年9月30日木曜日

クリムゾン・キングの宮殿

僕は大学時代、ピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部という音楽クラブに在籍していた。
ただ勧誘されるがままに主体的なものは何もなく入ったのだ。
だから最初は居心地があまり良くなかった。
でも、そのうちクラブ内に仲の良い友達が沢山できてくると、
何となくクラブ自体にも愛着が出て来たのだった。
軽音学部なんかに比べると“頑張ってるけど、報われない感”があって、
しかし、こんな名称じゃ仕方ないわ、というヌルさもクラブ内にどこかあって、好きだった。
何となく僕を守ってくれるような気がしたもんだ。
しかし、それは今になって思うことで、当時はもう少し熱かった。

2回生になった時、新入部員を勧誘するにあたって、僕はクラブを宣伝する看板を任された。
大学の構内に立て掛ける大きな看板を描き、設置するという係だ。
で、僕らニ回生は考えた。
多くの新入生を獲得する為にクラブの名前のイメージを少しでも変えるデザインがいいな、と。
…で、ミーティングを重ねみんなで考えた挙句、
その答えはこのアルバムのジャケットだ、という極論に達してしまったのだ。
キング・クリムゾンの衝撃的なデビュー・アルバム。
プログレ好きな若人を少しでも惹きつけようぜ、という大胆な企て。
それから一週間かけて、僕はみんなに手伝ってもらいながらこのジャケットの拡大版完コピ看板を描き上げたのだった。
それはかなり本物に近く、随分と迫力もあった。
なんせ自分の背丈より大きいのだ。
はっきり言って美術部の看板より明らかに優れており、技術もあり、
僕は我ながら惚れ惚れとしたのでありました。
当然みんなも気に入ってくれた。
…しかしだ。
結果的にプログレ好きな一回生など一人も入ってこなかったのだ。
大失敗だったわけである。
入部してきた一回生に「あの看板見た?」と訊くと、
「あれを見て入ろうかどうか迷いました」と言われる始末だった。

“頑張ってるけど、報われない感”
…僕は入部して1年もがいているうちにすっかりピアノ・電子オルガン・インストゥルメンタル部に相応しい一員となっていたのであった。
メデタシ。メデタシ。



(2000年頃に書いた文章を転載)

2010年9月27日月曜日

紡績工場

高校を卒業し大学に入学するまでの春休み、小遣い稼ぎのアルバイトをした。
実家からチャリで20分程走った所にある紡績工場で。
そこはかなり大きな工場だった。
ガッタンゴットン、と絶え間なく大型工機のノイズが鳴っていて、
工場の入り口から続く細長い通路は先が霞んで見えないほどだった。
働く時間帯は「朝5時から昼1時」「昼1時から夜9時」の二つ。
それを1週間ずつ交代勤務していく。
僕はそれまで腑抜けた高校生活を送っていたので、
そのスケジュールがきつかった。
毎朝、暗い時間に起きるのはまさに試練。
しかも、労働自体もハードで、毎日退屈な繰り返し作業ばかり。
僕が担当していたのは、糸の精製の初期段階で使う機械のひとつ。
終業時にはいつもクタクタになり、休日は寝るだけになっていた。
また次の週が始まるという前夜には、相当に気が滅入ったものだ。
しかし、工場にはそれを何十年も続けているオッサンがいた。
無口なオッサンで、足を引き摺っていて(過去に機械に挟まれたのか?)、
僕がサボっていても何も言えない人だった。
その事実にも気が滅入った。
僕は自分の時給800円を指折り数えながら、いやいや仕事を続けた。
この頃、僕はアラン・シリトーが書くような労働者階級の生活を身をもって体験していたのであった。

さて。
ここからが本題なのだが、その紡績工場にはやたらと若い女工さんがいたのだ。
彼女らはみんなてきぱきと真面目に働いていて、
工場を回している原動力ぐらいのパワーを僕は感じた。
そんな彼女達、もちろん仕事中は私語を謹んでいるのだが、
休憩に入ると、みんな途端に元気に喋りだす。
それが何故か、東北弁なのだ。
僕は半分以上何を言ってるのか聞き取れなかった。
最初、全然事情を知らなくて、
僕は「なんか変なブームが来てるんだなー」などと思っていたのだが、違った。
彼女らは青森で中学を卒業した後、集団就職で来ている女の子達であったのだ。
誰もそんなことを事前に説明してくれなかったし、思ってもみなかったことなので、僕は驚いた。
終戦後の高度成長期にそういった集団就職があった、という話は知っていたけど、
現代でもまだそういう習慣が続いていたのか、と。
しかも、その人達が都会ではなく、自分の住んでいる町に来ていたのか、と。
全然知らなかった。
彼女達は町とは隔離された特異な環境、大きな工場の中で秘密のように生きていた。
だから僕なんかに知る由もなかったのだが。

工場の広大な敷地内には寮があった。
会社が責任を持って、彼女たちを預かっているという格好だった。
僕はバイト面接の時に「女の子には絶対に手を出さないように」と忠告されたことを思い出した。
おそらく彼女達も「地元の男には心を開くな」と教育されていたに違いない。
とにかく、彼女達はタフだった。
与えられた仕事を黙々とこなし、不満をこぼすこともなく、きびきびと動き回っていた。
そして、休憩時間になると、食堂で素早く食事を済ませた後、
(本当に息抜きが出来る)寮の自分の部屋へと帰っていった。
で、ものの10分もしないうちに寮から出てきて、
またいつもの労働に戻っていったのだ。
仕事が終わったら、その後、定時制高校へ行き、勉強するのだという。
僕は毎日クタクタだったというのに…本当にタフだ。
よく考えたら、僕は高校を卒業していたので彼女らよりも年上だったことになる。
情けないなぁ。

数週間後、春休みも終わりに近づいた時。
僕は短期バイトだったので、そこをあっさりと辞めた。
そして、新しい大学生活を向かえることになった。
話はここで終わり。
ぷっつり途切れる。
彼女らがその後どんな人生を歩んで行ったのか、僕はまったく知らない。
だけど、何となく今でも気になっているのだ。
工場は数年後に閉鎖された、という噂を友達から聞いた。
でも、僕は彼女達が今でもあの工場で元気に働いているような気がする。
そんなはずはないのだが。


BGM:

2010年9月15日水曜日

スリリングな床屋

その昔、僕はスリリングな床屋に通っていた。
高校生の頃だ。
カミソリ使いが下手な床屋、親父がモーロクしている床屋、もみあげはテクノにしますか?
といまだに訊いてくる床屋など、危険な匂いを放つ床屋は色々とあるだろうが、
そこだけは特別だった。
何とそこの床屋の主人は、人を殺したことがあったのだ。
昔殺人を犯して、今は刑期を終えた主人が髪を切ってくれるのだ。
カミソリで顔も剃ってくれる。
僕がその噂を聞いたのは、そこに通い出してからしばらく経った後だった。
何も知らないで僕はその床屋に「ちょっと安いから」という理由だけで何ヶ月も通っていたのだ。
散髪の腕の方は特に問題なかった。
ただその主人は的場浩二似の無口な中年男性で、得も知れぬ迫力があったのは確かだった。
通い出した頃から僕は目付きがマジでちょっと怖い感じだな、
と思っていたのは確かだったのだ。
時々シェパードやシベリアン・ハスキーと不意に目が合って、その攻撃態勢のマジ加減に怯むことがあるけれど、それに近い。
散髪の仕上がりに文句を言おうものなら、一喝されそうな眼力があった。
僕は「噂は噂だろう」と思おうとしたものの、その情報筋はかなり信頼できるもので、
どうやらそれは間違いなく事実だった。
僕は主人のあの迫力と“元殺人犯”という影の肩書きを重ね合わせて、
戦々恐々としてしまったのだ。

問題はそこから先だ。
そろそろ髪が伸びてきて、散髪しなきゃならんな、と思った頃。
僕は選択を迫られた。
いつものようにその床屋へ行くか、それとも別の床屋を開拓するか。
いつものように行く、とは言っても僕はもう伏せられた事実を知ってしまっていた。
意識せざるを得ない。
人を殺した人にこの身を無防備に預けなくてはならない。
無論、いきなり理由もなく殺されたりするわけはないのであるが、
どう考えてもやっぱり怖い。
相手はハサミ、カミソリをその手に握っているのだ。
もしかしたらドライヤーであぶり殺されるかもしれない。
じゃあ、やめればいいじゃん、と思われるかもしれないが、
そういうわけにもいかなかったのである。
僕は堂々巡りの考えをするうちに、別の床屋へ行く事がその主人に発覚したらヤバイ、
と恐れてしまったのだ。
常連だったのに他の床屋に乗りかえたとバレた時、
殺意が芽生えるかも…と考えてしまったのだ。

僕は悩んだ。
十代の頃、特に悩んだ経験はないものの、この時ばかりは悩んだ。
先生にも相談できなかった。
これはもう究極の選択である。
で…、結局どうしたか。
そう、僕はその殺人床屋へ、意を決して行ったのであった。
あの主人に殺意を抱かせない道を選び、ボサボサの髪を乗っけて行ったのだ。
客は僕一人だった。
店には元ヤンキーといった風采の奥さんらしき女性と、
例の主人が不機嫌そうに待ち構えていた。
入った瞬間に僕はもう後悔してしまった。

殺される。

何故かそう思ってしまった。
そう思ってからは地獄だった。
今まで感じたことのない緊張感が全身に走り、それが店じゅうに伝わっているような気がした。
僕はその緊張感をごまかそうと、何とか平静を装うとした。
主人は「今日はどうされます?」と訊いてきた。
僕は「任せます」と答えた。
これがまずかった。
元殺人犯は「任せます」がお気に召さないのだった。
一瞬、間(ま)が空いた。
僕は殺気を感じた。
もうダメだ!
死ぬ!
すると、奥さんが絶妙のタイミングで助け船を入れてくれた。
「いつもと一緒でいいですよね」
「ハ、ハイ!」
彼女は命の恩人だ。
今、僕が音楽活動をできるのも全て彼女のおかげだと言ってもいい。
ともかく、その日の散髪は終わった。
僕の髪型は妙にぴっちりしていた。
模範高校生のようであった。
全然ロックじゃなかった。
パンクなんて海の向こうの話だった。
でも、全然よかった。
次の日、学校で「ぴっちりしてるやん」と友達にからかわれたが、
もう僕はどうでも良かった。
生きてあそこから帰れただけで幸せ、
とその“ぴっちり髪型”を愛しく思ったぐらいだった。

スリリングな床屋。
その床屋は数年後、いつのまにか無くなっていた。
僕はその後もしばらく通ってはいたが、大学生になってからは行かなくなった。
僕は店をたたんだ理由を考えてみた。
元殺人犯、という世間の風評に負けたのだろうか。
案外、主人が体でも壊してしまったのだろうか。
奥さんと別れてしまったのであろうか。
それとも、客に逆上して殺してしまったのであろうか。


(2000年頃の文章を転載)

2010年9月13日月曜日

Cryptic Creeps

人生初のバンドが「爽やかポップ」だったが故に早々に解散したという話は前回書いた。
しかしながら、解散したという意識は他のメンバーには無かったかもしれない。
何故なら次のバンドもエスカレーター式に同じメンバー構成になったからだ。
結局、みんな仲良しだったから、高校生の頃は得てしてそういうことになるのである。
ただし音楽性は思いっきり振り切れて、今度はハードコアなメタルを目指した。
バンド名はCryptic Creeps。
今度はコピーもやった。メタリカの「Damage Inc.」は決めの1曲だった。
僕は歌わず、ギターと曲作りに専念。
ヴォーカルは状況に応じて変わったりしていたな。
そのバンドでは高校の文化祭なんかにも出た。
めちゃくちゃだったけど、今ではいい思い出になっている。
地元のバンド・コンテストなんかにも出て「特別賞」というものをもらったなぁ。
何だか微妙な賞だが、要するに他のバンドと同じ土俵で評価してもらえなかったんだろう。

Cryptic Creepsはしかし、バンドでの活動よりもギターとヴォーカルだけのオリジナル曲をカセットに録音することの方に重点を置いていた。
メイン・ヴォーカルは前回も紹介した、ちょっと変わった人である「よっちゃん」である。
彼はシュールでお下劣なオリジナル・ギャグを幾つか持っていた。
下らない内容なんだけど、勢いと押し出しの強さだけで周囲を笑わせてしまう破壊力があった。
僕はゴリゴリのメタル・リフを作り、そこに彼の人間性を乗せてみたのだ。
基本1曲1分のスタンスで、カセットのAB面に何十曲も収録する、という悪ノリぶり。
当時、人気のあったアンスラックスとかビースティー・ボーイズのノリに影響を受けつつも、
メタルのギターリフと、瞬発的で意味不明なギャグのみで構成する音楽だったから、
これはかなり画期的だった。
未だかつてこういうメタルはなかった(恐らくこれからも出てこないだろう)。
友達に教室で聞かせたら、笑い死にしそうになっていたもんだ。
内輪受けでも、何となく面白そうな空間が出来ていればOK、という風潮が80年代後半にはあって、そんなムードにもマッチしていた。
音はローファイそのもの。同時代のダニエル・ジョンストンやセバドーの初期作に近い音像。
当然ビッグになる、などという観念は毛頭なく、
ただ自分達が笑えるものを作っていただけだった。
普通の高校生がバンド・ブームに浮かれていた時期に、
僕らはかなり独自の道を進んでいたことになる。
しかし、100曲以上量産し、色々とアイディアを練っていたこの頃の経験は、
その後の“まじめな”活動にも絶対に活かされていると思う。
自分で決めたコンセプトを誰の意見にも左右されずまっとうする、
という創作の流れはさほど今と変わらない。

というわけで、今回は聴いてみました。
その時の音源を。

カセットには「Cryptic Creeps 4」と書いてある。
4作目ということか。
しかし、聴きだしたらカセットが途中で空回りして止まってしまった。
テープが経年変化で劣化しているのだろうか。
でも、正直な話…
今はそれ以上聴かなくてもいい気分だ。
「糸こんにゃく~!」などとサビで叫んでいる1曲目のタイトルは「死ね!」。
こ、これは…ひどい。
どうしたもんだろうか。
確かに(あまりにひど過ぎて)くすっと笑ってしまったのは認めよう。
しかし、これは若気の至りと言うしかない代物だ。
前言撤回します。
こりゃダメだ。
この時代の僕は瘧がついていたとしか思えない。
何考えてたんだろうなぁ?
僕も記憶の中で美化し過ぎ。
その後の“まじめな”活動に、これの何が活かされていたんだ?
100曲も作るなよ…。
これはもう門外不出、決定。
Cryptic Creepsよ、永遠に。
以上。


BGM:The Drums / The Drums

2010年9月4日土曜日

初めてバンドを組んだ

高校2年生の時、初めてバンドを組んだ。
バンド名はフローズン・テイル。凍った尻尾。
メンバーは学校の友達で、半分が初心者だった。
曲はいきなり僕のオリジナル。
定石通りなら簡単なコピーから練習に入りバンドの音を固めていくところだろうが、
僕はそんな回り道はイヤだった。
簡単な曲がいいのなら、それを書いてやる。
こうである。
まぁ、そのあたりは10代なので無理がきいた。
初めてだからと言って臆することはない。自分にやれることをやってみるだけだ。
実際、何とかなった。
リズム隊の二人は中学からブラスバンド部を続けていたおかげで頼りになった。
当然彼らは飲み込みも早いわけで、バンドは自然と様になっていった。
自分の曲が練習スタジオで具現化していくのを見て、僕はすごく高揚感を感じた。
それまでは頭の中だけで構想するだけだった。
それとはやはり雲泥の差、である。
勿論、演奏自体は個々の技量も含めて修正点は沢山あったけれども、
その課題が現実のものとして目の前にある感覚が強烈だった。
僕は完全に夢中になった。

因みにどんな曲をやっていたかというと…、ネオアコ+パワーポップみたいな英語曲。
アズテック・カメラが『ストレイ』で見せた方向性に近いかも。
でも、数ヵ月後、メンバーの中でその「爽やかさ」をバカにした奴が出たので、
僕はやる気を失ってしまい、フローズン・テイルは1回のライブだけでお仕舞いになってしまった。
何ともあっけない。
しかし、確かにそこは滋賀県の田舎町。
似合う音楽と似合わない音楽がある。
僕はそう思うようにした。

そのバカにしたメンバーというのがもう一人のギター、よっちゃんだった。
(野村義男の「よっちゃん」と違う関西風イントネーションで読んでね)
これがかなりのツワモノ。
エレキギターは親戚から譲り受けた、とか何とかで、
しかし弦の張り替え方を知らないので、気が付いたら弦1本で練習をしていたという高校生。
僕は驚いて「それで何を弾いてたねん?」と質問すると、
「ライトハンド。」という答えが返ってきた。
事実、よっちゃんはライトハンド奏法がすごく巧かった。
(それだけ1本弦ギターの時代が長かったことを意味する)
その1本が切れたらギターをやめるつもりだったのかもしれないが、
運良く残り1本のところで、僕と仲良くなり彼はバンドに加入することになった。
僕はすぐに弦の張り方を教えてあげた。

そんなよっちゃんだが、バンド加入にあたってもうひとつ些細な問題があった。
それは、ギターは持っていてもギターケースが無かったことである。
それでは外出できないのである。
ストラップで肩にギターをかけてそのまま自転車に乗ればええやん、と僕は言ったが、
それはキカイダーみたいでイヤらしかった。
「明日、雨が降ったら練習に行けない」と言われた時はさすがに僕も「ケース買えよ」と言った。
そんなある時。
よっちゃんは練習スタジオにギターをアディダスのボストンバッグに入れてやって来た。
でも、それではネックから上がバッグから突き出てしまう。
そこで彼は考え、そのネック部分に紫色の風呂敷を巻いて、登場した。
何かと思えば、ギターか。
僕はそう言った。
風呂敷をひらくとストラトキャスターは少し恥ずかしそうだった。
ちょっと上等な日本酒みたいだった。
練習スタジオで僕らは笑ったものである。

その帰り道。
駅の近くで偶然僕らはクラスの女の子2人とすれ違った。
別になんてことはなく、ただ軽く会釈しただけだったのだが、
よっちゃんだけが、ひどくうろたえていた。
他のメンバーが肩からギターケースを提げているのに、
自分だけ自転車のカゴにボストンバッグを入れていて、
しかもそこから紫の風呂敷に包まれた長いものが突き出ているのである。
やっとそれが恥ずかしい、ということを感じたようである。
「じょ、女子に見つかってしまった…」
さっきまで勢いよく笑っていたよっちゃんはひどく落ち込んでしまった。
帰り道、10回以上は「バレてしもうたかなぁ」というセリフを聞いた。
僕は半分呆れながらも「大丈夫や。誰もそれがギターやとは気がつかへん」とフォローした。
まぁ、そういうこともあってか、
彼は数日後、ギターケースを買ったのであった。
それ以来、女子とばったり出会うことはなかったけどな。

(つづく)

2010年8月30日月曜日

孤独な闘い

大昔のこと…僕がまだ地元・滋賀で中学生をやっていた頃、
5つくらい上の先輩(同じ学区だと思われる)が突然モヒカン頭になった。
皮ジャンに細いブラック・ジーンズ、そそり立ったモヒカン、
という出で立ちで颯爽とチャリをこいでいる姿を僕はある日突然目にし、ぎょっとしたのだ。
何だ?今のは…?。
あっけにとられた。心臓がドキドキした。
その先輩のことはよく知らなかった。
でも、顔はどこかで見たような覚えがあった。
恐らく僕が小学校に入った頃、モヒカン先輩は高学年にいたのだろう。
でも、あやふやな記憶の上での話だ。はっきりとはしない。
しかし、とにかくその顔は前にどこかで見かけた顔だっただけに、
僕は余計に衝撃を受けたのだった。
知ってる人があんなになってる。
いわゆるそれが極道パンクの生きる道だということも知っていた。
当時読んでいたミーハー洋楽雑誌ミュージック・ライフでも一応は(日本発売されてるなら)そういうハードコア・パンクも載っていた。
もう白黒ページのほんの隅っこの方にだけだったが。
でも、それはそれは強烈で、異彩を放っていたもんだった。
この全体に黒くてよく見えない写真は何?、アナーキーって何?、ポジパンって何?
中学生の僕にはとても危険な匂いがして、そのページの一角へはとても足を踏み入れられなかった。

今ならモヒカンも一般的認知があるだろう。
普通の人気バンドにもモヒカン頭はいるし、
ベッカムが流行させた新種ソフト・モヒカンみたいにちょっとした浮ついた気分で仲間入りすることだって出来る。
でも、当時のモヒカン頭というのは相当覚悟を決めないとできない髪型だった。
どこか遠い外国で起こっている話ではなく、
現実にその異端な髪型をして町中を歩かないといけないのだ。
勇気だってかなりいるだろう。
自分という存在すべてをパンクに捧げる決心がないと出来なかっただろう。
それに、敢えてもう一度書くが、これは大都市での話でもない。
滋賀県の片田舎での話だ。
誰も注目していないそんな場所で、その頭で生きていかなきゃならんのだ。
・・・。
今にして思うことは、モヒカン先輩はずいぶん孤独な闘いをしていたんだなぁ、ということ。
21世紀のポップ・パンクをやる上で(ファッションのひとつとして)モヒカン頭を選択するのとでは次元が違う。
まぁ勿論、現代のモヒカンさん達もどこかで闘ってはいるのだろうが、これだけは言える。
彼らは今、そんなに孤独ではない。
そう、モヒカン先輩は本当に孤独だったのだ。
僕の田舎には、他にあんな頭をした人は誰一人としていなかった。
孤独だったからこそ、モヒカン先輩はとても気合いが入っていたし、本物のパンクだった、と僕は今思うのだ。

そんなモヒカン先輩に僕はある日、急接近したことがあった。
小泉町の田中書店へ立ち読みに行ったら、
モヒカン先輩が一人でマンガを立ち読みしていたのであった。
その時は「やべぇ人に遭遇した!」と思って、そそくさと退散したのだが、
ちらっと見えた先輩の横顔は案外素朴だったことが印象に残っている。
そして、何だか淋しそうだった。
平日の昼間っからママチャリを漕ぎ本屋に立ち読みに来るぐらいだから、
あんまり良い人生ではなさそう…ということ以上に彼のパンク極道と比較して、
その行動が実にアンバランスで、何とも言えない寂寞感が漂っていたのであった。
モヒカン先輩だって「キャプテン翼」を読みたかったんだ。
僕は家に帰りながら、そう思った。
しかし、そんな冴えない立ち読み時でも先輩はきっちりモヒカンを立てていた。
言いかえれば、そんな時でもモヒカン先輩は闘っていたのだろう。
パンクスとしての矜持をモヒカン先輩は立ち読みの時だって、捨てていなかったのである。
あの姿は本当にものすごく孤独な感じがした。
時々僕は不意にモヒカン先輩のことを思い出すことがある。
あれから何年経ったのだ!
随分昔のことのように思える。
モヒカン先輩はただのオッサンになってしまったのであろうか。
それとも、まだ滋賀県のどこかで埋もれながらも闘っているのだろうか。
僕もひとつ頑張るとしよう。
最終的に僕はいつもそう思うのだった。


(2000年頃の文章を転載)

2010年8月27日金曜日

ミニFM局

またまた中学生の頃の話。
前回にも登場した友人D君と僕は、ミニFM局というものをやっていた。
今で言うとPodcastやUstreamみたいな存在だろう。
トランスミッターというFM周波数を出す機械で、
自分達で作った番組を半径50メートルに向けて放送するのだ。
半径50メートル。
そう、たったそれだけの規模である。
しかし、実際に携帯ラジオを持って近所を歩き回ってみると、
ちゃんと自分達の声や選曲が聞けたのである。
これには思わずほくそえんだ。
FM周波数はたしか75.0だった。
全世界とつながってるネットもいいが、ミニFMもなかなかのものだった。
そして、これが80年代前半にちょっとだけ流行っていたそうである。

僕は全然詳しくなかったのだが、FM文化に憧れていたD君がそういうことに熱心だった。
当時は専門の雑誌が何誌もあるぐらい、FMは最先端で人気のメディアだったのだ。
ついでに言うと、D君は小林克也にも憧れていた。
ミニFMだったら、自分もすぐにDJになれるのである。
そんな彼が僕を勧誘した。
親がラジオ局に勤めていて、しかも家にレコードが沢山あって、
オープンリールとかミキサーとか特殊な機材も準備できる、
そんな僕を誘うのは当然の成り行きだった。
僕はすぐに乗り気になった。
そして、ミニFM局を開局することがあっさり決まった。
その話を父親に話したら、翌週にはもうトランスミッターが家にあった。
D君はその展開の早さに手をたたいて喜んだ。
うちの父親は新しいモノ好きで、
息子がラジオの真似事をすると聞いたからには辛抱ならなかったのだろう。
すぐに資料を取り寄せ、注文してしまった。
僕も自分の息子がギターを買いたいと言ってきたら、
すぐに買ってしまうかもしれない。
まぁ、そういうもんだろう。

「Yellow Kong Station」 これが僕らの番組名だった。
何とも絶妙に80年代っぽい「微妙な」ネーミングで恥ずかしい。
さすが中学生。
考えたのは確かD君で、僕はロゴとイラストを考えた。
そしてピアノでジングルまで作った。
「楽しそうなことしてるやん」と友人K君も仲間に加わった。
僕らは学校の10分間の休み時間にもわざわざ集まって、
番組についての会議をひらいた。
そんな甲斐もあり、放送は第一回目からうまくいった。
そう記憶している。
楽しかったのは楽しかった。
しかし、その一方で虚しさもあった。
そう。半径50メートル問題だ。
友達にこう言うことも考えた。
「明日、夕方4時頃、うちの近くにまで来てラジオを聴いてくれ」と。
しかし、それだったら普通に家に遊びに来ればいい話だった。
D君と話し合った結果、結局は番組をカセットに録音することにした。
そして、それを友達のあいだで回していくのだ。
もはやFMでも何でもなかったが、しょうがない。
聞いてもらってナンボだ。作るからには友達にも聞いてもらいたかった。

というわけで「Yellow Kong Station」のカセットは学校で出回ったわけだが、
これがなかなか好評を得た。
D君はもともと学校で人気者だったし、中学生が自分達で番組を持っていて、
好き勝手なことを喋っている、ということ自体が画期的で、かなり面白がられた。
次の番組のテープを早く貸してくれ、という声があちこちから起こった。
僕らはその声にテンションが上がり、暇な週末を見つけては番組を作っていったのだ。
ネタには事欠かなかった。
みんな音楽好きだったし、それぞれが好きな曲を持ち寄ってはそれを紹介していった。

残念なことに今現在、僕の手元にあの当時作っていた番組のカセットは残っていない。
つまり、誰かから誰かへと渡っていったカセットは僕の所には戻ってこなかったことになる。
アバウトだったから、特に貸し出しの台帳とかも作っていなかった。
まぁ、しかし、それを自分が今聞き返せないことは幸せなのかもしれない。
聞いたら絶対に赤面ものだろうから。
この歳になって赤面はイヤだ。


BGM:Surf's Up / The Beach Boys

2010年8月19日木曜日

林間学校

音楽を意識的に聴くようになったのは小学校6年生くらいであっただろうか。
両親がラジオ局で働いていた事もあり、僕のうちは音楽がいつも身近なところにあった。
レコードの扱いを教えてもらってからは、ちょっと背伸びした気分でそれを楽しんだ。
傷をつけないよう大事に大事にシングル盤をターンテーブルの上に乗せ、
針を落とし、出てくる音に耳を傾けていたものだ。
聞いていたのは当時の歌謡曲のシングル盤。
でも、それだけじゃ物足りなかった。
洋楽ロック一辺倒になるのは、中学2年生以降になる。
そこから僕の本格的な音楽生活が始まった。
時代は完全に80年代旋風が吹いていて、僕もその大波に飲み込まれた形。
クラスの友達の多くに影響されながら色んなものを聴いていった。
レンタルレコード屋にもよく通った。
家が近所だった友人D君とは、日曜日、二人で約束して午前中からレンタルレコード屋へ行き、
当日料金(50円引きになる)でLPを3~5枚ほど借り、
真っ直ぐ自宅へ帰りそれをカセットに録音した後、昼過ぎにまた二人で待ち合わせ、
お互いに借りたレコードを交換してさらにそれを録音…ということをやっていた。
夜に返しに行く時はヘロヘロになっていたもんだ。
それだけ貪欲に新しい音を追いかけていたのだ。
しかし、それだけでは話は済まぬ。
また別の友達からはカセットを貸りて、それをさらにダブルデッキでダビングしたり。
ダビングのダビングだと音がモコモコしてたよな。

そんな頃、中学2年の秋。
林間学校っぽい泊りがけのバス遠足があった。
当然その宿泊の夜は、友達同士でロック談義となる。
友人M君は規則違反のウォークマンを持ってきており、
それがさらに皆のテンションを上げさせた。
大部屋に並んだ二段ベッドの上、順番でそれを聴くことになった。
先生の見回りがあってヤバいのだが、そのワクワク感はハンパじゃなかった。
しかも、M君が持ってきていたカセットが驚異のメタル・バンド、WASPだったのだ。
股間にノコギリを立てて放送禁止曲を歌う、という噂の新人だ。
まだそれを聴いたことがなかった僕としては、これは是が非でも聴いておかねば、という気持ちになった。
ジャージ姿の中学2年生たち。可愛いものである。
僕の順番が回ってきた。
僕は二段ベッドに登り、おそるおそるウォークマンのプレイボタンを押した。
すると出てきたのがド派手なメタル・サウンド。
そして凶暴で邪悪なダミ声ヴォーカル。
僕は度肝を抜かれた。
でも、ビックリするほどサビのメロディーがキャッチーで…と思っていた瞬間、
誰かが小声で囁いた。
「先生が来たぞ!」
その場に戦慄が走った。
緊迫した空気になり、皆が皆取り繕うような素振りを見せ、あたりがシーンとなった。
まだ就寝時間でもなかったので適当に雑談していればいいものを、
シーンとなってしまったことで「何か悪いこと」をしているのがバレバレだった。
僕はとっさに、これはカセットを止めなければ現行犯になる!と思い、
ガチャガチャとストップボタンを探してカセットを止め、枕の下にウォークマンをササッと隠した。
ジャージの下で心臓がドキドキと打っていた。
が、先生の見回り情報はガセだった。
実際は大部屋の前を通りがかっただけであった。
僕らはほっと胸を撫で下ろした。
でも、ロック談義はそこでお開きとなった。
僕もこれ以上ヤバい橋は渡れない、と思った。

後日、僕はM君から改めてWASPのカセットを借りた。
やっぱり気になっていたし、「先生が来た!」というあのガセネタが出た瞬間以降の曲も、
ちゃんと聴いておきたかった。
かくして、今度は自宅でゆったりした気分で聴けた。
1曲目。例のキャッチーなサビの部分。
しかし、ここで急にM君のカセットから「チュルチュルチュル」という音がした。
おやっと思った…が、原因はすぐに分かった。
原因はあの夜の僕だった。
きっとストップボタンを押さないといけないところを、
焦って録音ボタンと巻き戻しボタンを同時に押してしまったのであろう。
ほんの0.3秒ぐらいだが、テープが巻き戻る音が録音されてしまっていたのだ。
「チュルチュルチュル」
ヒップホップのスクラッチ音じゃあるまいし、サビが台無しになっていた。
翌日、僕はM君に謝った。
M君は大目に見てくれた。
あの状況だったから、逆にそれは笑い話になったぐらいだった。
で、僕はと言えば、ちゃっかりその「チュルチュル版WASP」をダビングさせてもらっていた。
その後も何度か聴いたのだが、その度にあの「チュルチュル」が耳に入った。
そして、その度に楽しかった林間学校の夜を思い出したのである。

(つづく)

2010年8月11日水曜日

うちの金魚

うちで金魚を3匹飼っている。
いたって普通の和金という種類の金魚たちだ。
そのうちの1匹の様子が今年の春頃からおかしくなった。
それまでは他の2匹同様、活発に動いていたのだが、
すっかり大人しくなって水槽の下の方で静かに佇むようになったのだ。
最初は寝ているか、リラックスしているだけなんだ、と思っていた。
しかし、ある日まじまじとその1匹を観察していた時に分かった。
よく見ると、眼が淀み、黒目が半透明になっている。
失明していたのだ。
他の2匹の黒目は漆黒の濃さなのに、
その1匹の眼は頭部の中が透き通って見えるほどに薄い黒目になっていた。
水槽をコツコツと指で叩くと、反応して普通に泳ぎ出すので、
重大な病気ではなさそう。
しかし、泳いでいると他の2匹にぶつかるし、ポンプの管にも真正面から激突してしまう。
だから、彼は水槽の下で静かに佇んでいたのだ。
自分の身を守るために、じっとしていたのだ。

それに気付いてから僕は、その失明金魚のことが気にかかってしょうがなくなった。
金魚は自分の身に起こった事態に気付いた時、絶望したであろうか。
そもそも何にも楽しくない水槽の中だ。
自分は何の為に生きているのだろうか、などと自問はしていないだろうか。
それともオツムが弱いので、失明した事自体、今でもわけが解っていないのであろうか。
とても可哀相だった。
しかし、唯一の救いは失明金魚が頑張って生きようとしている事だった。
エサをやると、水面付近にまで浮き上がってきて一生懸命エサにありつこうとする。
他の金魚2匹がエサに食らいつく音や水の波動に気付いて、
自分も水面付近で口をパクパクさせにやって来るのだ。
生き続ける為に、彼は本能のままにそう行動するのだ。
しかし、目が見えないからうまく食べられない。
エサのない方向で口をパクパクやっていることもしばしば。
運が良ければ、そのうち1~2粒口の中に吸い込まれるかもしれない。
彼はそれだけを頼りに生きているのだ。
僕がその病気に気付いてやれなかった頃は1粒も食べられなかった日もあっただろう。
何とおそろしかったことか。
目前に死を感じていたかもしれない。
想像するだけで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

今、僕は3匹いる金魚の中で失明金魚を一番かわいがっている。
なので、毎日えこ贔屓をしている。
エサやりの時、先ずは最初、数粒だけ水槽にエサを落とす。
すると他の2匹が物凄い勢いでエサの争奪戦を始める。
バチャバチャという貪欲な波しぶきをたてて。
その音を聞かせて、僕は失明金魚にエサの時間を教えてあげる。
あとは彼が口をパクパクさせる方向にだけエサを落としていく。
勿論、他の2匹に邪魔されたり横取りされることの方が多いが、
ちゃんと食べられる確率はかなり高くなっていると思う。

嬉しいことに、最近の失明金魚は水槽の下でじっと佇むことが少なくなった。
目が見えないことに変わりはない。
しかし、恐怖心が少しはやわらいだのであろう。
というか、その生活に慣れただけかもしれない。
とにかく以前より少し活発になった失明金魚を見ていると、
僕はとても嬉しい気持ちになるのである。


BGM:Four Altos / Woods,Quill,Shihab,Stein

2010年8月4日水曜日

ギターを始める

僕がギターを初めて買ったのは高校一年生の時。
メーカーのカタログを目を皿のようにして読み、雑誌の広告を飽きるほど眺めた後、
京都へ出て、四条の楽器屋でドキドキしながらレスポールを買ったのだ。
その日の事は今でも鮮明に憶えている。
しかし、そこへ行き着くまでには長い道のりがあった。
別に道路事情の話ではなく、買うまでに至った僕の中での道のりのことである。

そもそもギターを弾きたいと思ったきっかけは中学の文化祭で友達のバンドを観たこと。
当時は空前のバンドブームが到来する数年前。
友達のバンドはめちゃくちゃ輝いて見え、それは到底普通の光景ではなく、
とびきり特別なことのように思えた。
僕は衝撃を受けたのだ。
それまでに曲を作り始めていた僕は「やっぱギターを弾かな始まらん」と思った。
その時までは家のピアノを使っていたが、まったく理想の世界へと近づいていなかった。
(注:小学校の時にピアノを習っていたのです)

しかし、それで次の日エレキを買いに走る、といったお決まりのストーリーにはならない。
僕の場合。
自信がなかったので、まず僕は友達O君からアコギを借りた。
練習を始めて、向いていないことをギターを買った後で知るのはイヤだった。
それで、買う前に少しは弾けるようにしておこうと考えた。
自分で言うのも何だが、自分は全く信用ならないヤツだったので、
まずはそのヤル気に疑いをかけたのは当然の成り行きだった。

しかし、実は友達にギターを借りよう、と決心するまでにもストーリーはあった。
友達にギターを借りて、全く上達しないまま返却するときっと恥ずかしいに違いないので、
借りる前にちょっと練習しておこうと思って、
木とダンボールで原寸大のギター模型を作ってみたのだ。
で、それを抱いてみて、ステレオで曲をかけながら、エアギターのように手を振り、
それがどんな感覚のものなのか、自分自身で確かめたかったのだ。
空手の「形」は基本中の基本だが、僕もギターの基本中の基本を身につけたかった。

ネックは近所の材木置き場に落ちていた木片だ。
ボディはダンボールをカッターで切り取って、それを4枚重ねにして作った。
はじめファイアーバードの形にしたかったのだが、あの絶妙なラインをどうしても下絵に書けなくて、仕方なくフライングVにした。
作っていると、いつしか隣から頭をねじ込むようにして見ていた弟・純(まだ小学生)が、
自分にも弾かせろと主張してきた。
僕は「あかん。子供が触るようなもんじゃない」と叱ったものである。
そして、色を塗った。
ラジコンの塗装用に持っていた銀色のラッカーを塗りたくり、
あとはスイッチやらツマミ、フレットをマジックペンで書き入れ、完成させたのだ。
弟・純はあまりのカッコ良さにビビっていた。
今だったらレニー・クラヴィッツが売ってくれ、と懇願しそうなピカピカの銀色のフライングVだった。

しばらくはそれを弾いていた。
いや、音は出なかったけど、カシャカシャと手とダンボールが擦れる音はしていた。
弾いていると、右手小指の下あたりが銀色になった。
その汚れを見て僕は、今日もよく弾いたなと思ったもんだ(勉強をしろ)。
今現在、僕は弾きたいようにギターを弾けるようになって、
曲を作るのにもギターを大いに役立たせている。
あの頃の事前練習のおかげだと思っている。
本当に。
先日レコーディングで気合が入って何時間もギターを弾いた後、
気が付いたら、弦と擦れてたせいで右手小指の下が黒ずんで汚れていた。
それを見て僕は中学生の頃の「銀色の右手」を思い出したのである。


BGM:Sandinista! / The Clash

2010年7月31日土曜日

とは言え、歌詞なら

(前回からの続き)

とは言え、歌詞ならいくらでも書けるのだ。
自分のことを投影させた、魂を込めた、自伝的なものを。
これが面白いところだ。
音楽の不思議な力を僕はそういう所に感じていたりする。
リズムやメロディーに乗せるべき言葉がするすると出て来る時、
それは自伝的であろうが、完全なフィクションであろうが、
何の引け目もなく僕は自信を持って世に送り出すことが出来るのだ。
そこに自意識過剰云々、という価値観そのものが無用。
音楽のない所での言葉書きでは、瑣末なことに気を揉むくせに、
歌詞だとバッサリ断定できるし、色んな解釈をしてもらっても結構、という態度でいられる。
誤解されたらされたらで、それがあんたのキャパシティだと言い切ってしまえる。
その気持ちの落差は実に面白い。

ま、そんなわけで歌詞について少し書いてみよう。
これなら少し書き進め易いかもしれない。

実は最初、僕は自分が書く歌詞については深く考えていなかった。
高校生から大学生になった頃は、辞書を引きながら英語詞で書いていたぐらいだ。
しかし、それではさすがに自分が歌う内容が直接頭に入ってこない、というので止めた。
考えてみれば、元々いい歌詞が好きだったのだ。
それなのに自分がいい歌詞を書けてるかどうかも分からないのは、もどかしかったわけだ。
そう。洋楽を聴き始めた中学生の頃から、僕はいい歌詞の曲が好きだった。
テレビで対訳字幕つきのブルース・スプリングスティーンの「リヴァー」を観た時は鳥肌が立ったものだ。直接英語は聞き取れなくとも、その意味さえ頭に入ってくればその曲のエモーションが直接伝わってきて、ゾクゾクするような感覚を味わえた。
その後、ボブ・ディランやミック・ジャガーの素晴らしき詩才にも感銘を受けたりしていた。

そういう自分を思い返しつつ、僕は20歳の時、初めて日本語詞に挑んだ。
最初はどんな風になるのか分からないまま、書いてはボツ、書いてはボツというのを繰り返していたように思う。
誰とも相談せず、それをやったところで何になるんだろうか、ということも一切考えず、孤独に創作に明け暮れていた。
日本語詞と言えば、自分の中では阿久悠さんの書く歌詞ぐらいしか慣れ親しんだものはなかったろう(実際「ウルトラマンタロウ」「ウルトラマンレオ」の歌詞にはかなり影響されていると思う)。
そんな中、自己流に進めていった。
作っていると歌詞のヴィジョンが頭の中に次々と行き過ぎていき、
そこから何となく音楽自体の飛躍も生まれそうな気配が出てきた。
そして、何とか人前に出せそうな曲が5曲ほど仕上がり、
その中から2曲を選び、デモテープをレコード会社に送りつけた事が、
今現在へと至るきっかけ、だ。
ポニーキャニオンのディレクターさんに気に入られ「1回東京に遊びにおいでよ」と呼ばれ、
大阪から東京へ日帰りで遊びに行った時、
「徳永君は自分がどこがいいか分かってる? 歌詞がいいんだよ」と指摘された時は、
「曲じゃねーのかよ!」と思ったりもしたが、内心はほっとしたものだ。
このやり方は間違ってなかったと思って。

ちなみに最初の5曲の中からは「気にしないで」「トンネル」が発表されている。
これは今でも新曲に混ざってライブで普通に歌っている。
ちなみついでに、当時のディレクターさんとも今でも親交あります。
昔の話だが、これは断絶の物語じゃないのだ。
ちゃんと今現在へと繋がっている。
そして、僕の孤独な創作も、まだまだ続いていくのだ。


BGM:Harry / Nilsson

2010年7月26日月曜日

自意識過剰

昨日から自分のことをじっくり書こうと思ってパソコンに向かっているんだけど、
大した成果が上がらんもんだな。
こんなこと書いたら誰かが傷つくかも…とか、
誤解されてしまうかも…とか、
自慢話してると思われるかも…とか、
雑念ばかりが頭をよぎってしまう。
一向にはかどらない。
書きたいことは沢山あった筈なんだけど。
なかなかうまいこといかないもんだな。

しかし、これは僕の性格が「控えめで思慮深い」だからってことではないのだ。
それは重々承知している。
実はこれも一種の自意識過剰が引き起こした事態なのだ。
恐ろしや、恐ろしや。
何の引け目もなく堂々と自分の武勇伝を書いてしまえる人と、
結局は同じなのだ。
ザ・自意識過剰。
両者はただ防御の仕方が、ちと違うだけだ。
むしろ自分の内側すべてを曝け出す豪快な自伝を書ける人の方が、
ある意味、自意識を突き抜けた解脱状態で優位なのかもしれん。

そう言えば、数年前こんなことがあった。
今まで一切公表していないと思うが、僕はルービックキューブが好きだ。
ある日、古澤ひかりと喫茶店で打ち合わせをしていた時、
彼女がトイレで席を立ったその間に、
暇だから机の横の棚にあったルービックキューブを解いて、
帰ってきた彼女に見せたことがある。
その時、古澤ひかりは何と言ったか。
「ふーん」
それだけで終わり。
あの時は恥ずかしかった。
得意気になっている自分を見透かされているようで恐ろしかった。
普段、天然気質丸出しの古澤ひかりだから、ついつい僕も油断してしまったのだ。
ついつい自慢してしまった。

本当、自意識過剰はいつ何時も人を落ち込ませる。
でも、だからと言って簡単に放棄できるものではない。
人それぞれ、色々と守っておきたいものがある。
昨日から自分のことをじっくり書こうと思ってパソコンに向かっているんだけど、
まぁ、そういうわけで、あまり進んでいないのだ。
さて、これから何を書こうやら。


BGM:Texas Tornade / The Sir Douglas Band